男子高飛び込みで「超新星」玉井陸斗(14=JSS宝塚)が、劇的五輪を決めた。上位18人の準決勝に進出すれば代表に内定する予選。圏外の19位タイで迎えた最終6本目で91・80点の高得点。合計405・20点で逆転の15位に入った。準決勝は421・30点で9位通過。4日の決勝に進出した。コロナ禍による五輪延期で日本男子夏季五輪最年少出場は幻となったが、初の五輪切符。飛び込み界を担う中3は、14歳10カ月で東京五輪開幕日を迎える。

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東京五輪への美しいダイブだ。玉井は「絶対、決めてやる」と高さ10メートルの台に立った。19位タイで迎えた6本目。高く飛び、ひねりを加えた。水しぶきのないノースプラッシュ。91・80点。18位以内を確信して馬淵コーチとグータッチ。「追い詰められてあまり記憶がない。うれしかった」。

「初めて足の感覚がなくなるぐらい緊張した」

多くの最年少記録を誇る14歳も緊張した。大規模な国際大会は初めて。46人出場の予選は約4時間に及んだ。2本目に苦手な後ろ入水でミス。その後も精彩を欠いて4本目を終えて24位。5本目を待つ約30分の間に、馬淵コーチが駆けつけた。プールサイドにマットを敷いて後ろ宙返りを2度。異例となる演技中の“緊急メス”。わずか5分の指導だったが、息を吹き返した。5本目で19位、6本目で15位と順位を上げて「素直にホッとしています」。

自宅から車で約15分。3歳で兵庫・JSS宝塚にスイミングで通い出した。そこは馬淵コーチのもとで寺内、板橋らも練習する「飛び込み界の虎の穴」だった。小1でもらってきた体験教室のチラシが始まり。父隆司さんは「ぱちゃぱちゃ泳いでいるかと思ったら、飛んでいた」と振り返る。

馬淵コーチは、玉井の体を見て仰天した。「腹筋が割れている小学生なんていない。体幹が強い。宝くじに当たった」。すぐに生年月日を調べて、東京五輪に間に合うことを確認。小4の冬には寺内らの中国合宿に同行させた。隆司さんに「パリ五輪を目指せる。ワンランク上のものを食べさせてください」とお願いした。父は戸惑いながら、息子の「ヤクルト」を「ヤクルト400」に格上げ。中1の19年4月に日本室内選手権で12歳7カ月の最年少優勝を飾って、目標が東京五輪へ前倒しになった。

陸斗の由来は「大陸のように広い心を持った人になってほしい」。五輪1年延期で、日本男子夏季五輪最年少記録「13歳10カ月」での出場は幻になったが、五輪をつかんだ。「トップ選手たちとライバルとして戦っていける選手になりたい」と決勝で修正を誓った。

小学校の卒業文集では「オリンピックでメダル」と書いた。飛び込みの日本勢は1920年アントワープ大会で初出場も五輪メダルはなし。玉井の自己ベストはリオ五輪銅メダル相当の528・80点。14歳は、飛び込み界100年の夢を目指していく。【益田一弘】

◆玉井陸斗(たまい・りくと) 2006年(平18)9月11日、兵庫県宝塚市生まれ。3歳の時にJSS宝塚で水泳教室に通い始めて、小1で飛び込みを始める。小5から本格的に寺内らと一緒に練習する。19年4月に日本室内選手権で、12歳7カ月の史上最年少優勝。好きな食べ物は牛タン。家族は両親と兄。憧れは寺内健。155センチ、51キロ。

▼玉井の五輪までの道のり

◆19年4月 日本室内選手権で474・25点を記録。12歳7カ月の史上最年少V。五輪切符がかかる同7月の世界選手権、同9月のアジア杯は国際水連の年齢制限で出場できなかった。

◆同年9月 日本選手権を13歳0カ月で優勝。同選手権男女通じて最年少V。

◆20年2月 五輪世界最終予選の出場権を獲得。

◆同3月 コロナ禍で東京五輪が1年延期。夏季五輪日本男子では1932年ロサンゼルス五輪競泳の北村久寿雄(14歳10カ月)を抜く13歳10カ月での最年少出場記録が消滅。21年五輪開幕時では8日足らず。

◆同8月 関西ジュニア選手権で半年ぶりに復帰。

◆同9月 日本選手権で3メートル板飛び込みでも14歳0カ月の最年少優勝を飾る。

◆21年4月 国際水連が五輪世界最終予選を中止する意向を発表。19年世界選手権ランクを使う選択肢が浮上した。玉井は年齢制限で同選手権不出場のため東京の道が断たれるピンチ。「正直やらないのでは、と思った。すぐやるということになってほっとした」。

◆21年5月 2週間延期で五輪世界最終予選開催。。