セカンドバッグを投げ付けた! 感情がぶつかり合った30年前の契約更改交渉

プロ野球の契約更改交渉は、年に1度、選手と球団の本音がぶつかり合う貴重な機会だ。今も昔も基本は非公開で、生々しいやりとりはなかなか表には出てこない。代理人交渉や下交渉が多くなった現在はなおさらで、少し面白みに欠ける。かつては、交渉後の会見で感情を爆発させる選手は多かった。1991年(平3)オフ、延べ31人の保留者を出した日本ハムの「銭闘」を振り返る。

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「やってらんねえよ」

最近、男性のセカンドバッグを見なくなった。パソコンやタブレットを持ち歩くようになったため、小脇に抱えられる程度のバッグでは小さすぎるからなのか。30年前はセカンドバッグ全盛時代で、持っていない男性を探す方が難しかった。

そのセカンドバッグが宣戦布告のノロシになった。

1991年(平3)12月2日、日本ハムのエース西崎幸広(当時27歳)は会見場に入るなり、持っていたセカンドバッグを床にたたきつけた。球団との1回目の契約更改交渉後を終え、担当記者の前に姿を現してすぐのことだった。

当時、現場にいたのが私。記事にはこう書いている。

端正な西崎の顔が怒りでゆがんでいた。「やってらんねえよ」。べらんめえ調で吐き捨てたあと、右手に持っていたセカンドバッグをプレスルームの床にたたきつけた。

ダンヒルのバッグが球団ロゴを直撃

セカンドバッグが宙を舞ったのは1度だけではなかった。同じ日に契約更改を保留した守護神の武田一浩(当時26歳)は、会見場にあった日本ハム球団のロゴマーク目がけて、セカンドバッグを投げ付けたのだ。

二人あとの武田は交渉が終わってプレスルームに入るなり、ダンヒルのバッグを「FIGHTERS」のロゴが入ったブラインドに投げつけた。「リリーフはもう一生やらない。調停? 辞さずです」。止まらない。過激発言のオンパレードだ。

この年の日本ハムは4位。3年連続Bクラスでは、そうそう年俸が上がるはずはない。しかし、西崎や武田ら投手陣はそうは考えていなかった。

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1988年入社。プロ野球を中心に取材し、東京時代の日本ハム、最後の横浜大洋(現DeNA)、長嶋巨人を担当。今年4月、20年ぶりに現場記者に戻り、野球に限らず幅広く取材中。