【宇都宮ブレックス〈16〉渡邉裕規】「ナベタイム」の原点をたどって~名付け親編~

アリーナの雰囲気を一変させる渡邉裕規選手(35)の「ナベタイム」。その原点をたどって、覚醒編、源流編と深掘りしてきた。そもそも「ナベタイム」という言葉は、口にしやすいし、語感も非常に良い。今回は視点を変えて、「ナベタイム」という言葉がどうやって生まれたのか、その経緯を追ってみた。

バスケットボール

地元ラジオ番組に出演した渡邉選手(左)と、それに同行した川瀬麻弓さん(右)(宇都宮ブレックス提供)

地元ラジオ番組に出演した渡邉選手(左)と、それに同行した川瀬麻弓さん(右)(宇都宮ブレックス提供)

「マイ・マザーだから」

駅前の広場には気持ちの良い風が吹いていた。

暑さがしぶとく残っていたころ、私はナベタイムの「名付け親」の1人に会うため、東京近郊の駅に降り立った。日差しは強いが、空気は乾いてきたのでそれほど暑さは感じない。緑が多く、感じの良い街並みが広がっていて、このまま少し散歩でもしたい気分だったが、待ち合わせの喫茶店は駅の目の前にあった。

「こんにちは~、わざわざ遠くまですみません」

「名付け親」の1人はそう言って席につき、こう切り出した。

「先日のゲームの帰りに、渡邉選手が私を探していたらしいのですが、たまたまタイミングが合わなくて会えなかったんです。うちの、ある外国籍選手が渡邉選手に『なぜ彼女を探しているのか』と聞いたら、渡邉選手は『マイ・マザーだから』と説明したらしくて。渡邉選手らしいですね」

川瀬麻弓(かわせ・まゆみ)さん。現在、Bリーグの他クラブで広報を務めている。

試合会場で私は名刺を交換し、その時に川瀬さんが過去にブレックスで働いていたことを知った。ちょうど「ナベタイム」を掘り下げていこうと考えていたときで、そのことを川瀬さんに伝えると、「私たちが名付けたんです」と思いがけない答えが帰ってきた。そこで、日をあらためて、じっくり話を伺うことにしたのだ。

2013年5月、ブレックス入団会見での渡邉選手(宇都宮ブレックス提供)

2013年5月、ブレックス入団会見での渡邉選手(宇都宮ブレックス提供)

川瀬さんは早稲田大学卒業後に大塚商会に入社。学生時代、大学バスケットボールの普及活動に携わったこともあり、当時JBL2の大塚アルファーズの運営にかかわった。

2007年、JBL2への参加権利をリンク栃木ブレックスが大塚商会アルファーズから譲り受け、栃木にチームを設立。川瀬さんは当初、週末だけ宇都宮に通いながら新しいチームの立ち上げをMCとして手伝ったが、その後、大塚商会を退社してブレックスに入社。創生期のブレックスを支えたメンバーの1人でもある。

「参考までに持ってきました」

川瀬さんが取り出したのは、2013-14シーズンのブレックスのイヤーブック。渡邉選手が休部したパナソニックからブレックスに移籍してきた年だ。若い。当時25歳。渡邉選手は35歳の今でも若く見えるが、この時はまだヒゲも長くなく、大学生でも十分に通りそうだ。

川瀬さんによると、当時のブレックスは「戦績に苦しんだ時期」だったという。

2009-10シーズンにJBLで初優勝したのち、3年連続で6位。観客数も少しずつ落ちており、新加入の渡邉選手と古川孝敏選手(現・秋田ノーザンハピネッツ)を何とか売り出したいと考えていた。

川瀬さんたちはイヤーブックで渡邉選手のことを「上昇気流を巻き起こす貪欲かつ饒舌な風雲児」と表現した。熱い言葉が並び、期待の大きさが分かる。

2013-14ブレックスイヤーブックから(川瀬麻弓さん協力)

2013-14ブレックスイヤーブックから(川瀬麻弓さん協力)

2013年8月。川瀬さんにとっては忘れられない出来事が起きた。

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1988年入社。プロ野球を中心に取材し、東京時代の日本ハム、最後の横浜大洋(現DeNA)、長嶋巨人を担当。今年4月、20年ぶりに現場記者に戻り、野球に限らず幅広く取材中。