【戸田晴登〈上〉】体操から氷上へ 遅咲きスケーターが道を切り開いた4回転サルコー

日刊スポーツ・プレミアムでは、毎週月曜日にフィギュアスケーターのルーツや支える人の信念に迫る「氷現者」をお届けしています。

シリーズ第56弾は戸田晴登(19=東洋大)が登場します。高校まで過ごした福岡時代は全国での突出した成績はありませんが、大学進学した2024―25年シーズンに全日本選手権に初出場を果たした急成長株。高橋大輔がフルプロデュースするアイスショー「滑走屋」にも選出されるなど、さらなる飛躍が期待されます。

全2回の「上編」では、苦難が続いたジュニア時代から、飛躍のきっかけをつかんだ高3のシーズンまでを描きます。(敬称略)

フィギュア

◆戸田晴登(とだ・はると)2006年(平18)3月17日、福岡県北九州市生まれ。小4の時に教室に通い、小5の春に飯塚アイスパレスで本格的に競技を開始。ノービス、ジュニア時代は目立った成績は残せなかったが、東洋大進学を機に埼玉アイスアリーナに拠点を移し大島淳に師事。24年に東日本選手権3位となり、全日本選手権に初出場。高橋大輔がプロデュースするアイスショー「滑走屋」のメンバーにも選ばれた。25年は東日本学生選手権で優勝。全日本選手権は2年連続で進出。趣味は実家の猫と遊ぶこと。試合の前は必ずHIP-HOPを聴く。身長175センチ。

10月26日東日本選手権男子フリー

10月26日東日本選手権男子フリー

体操選手の両親に育てられ

アスリートには、多かれ少なかれ誰にでも成長を実感する瞬間がある。

それは、何が引き金になるかはわからない。必ずしも、劇的な物とも限らない。

コーチとの出会い。ライバルとの出会い。あるいは、新しい環境、新しい練習方法―。

戸田の場合、それはたった1本のジャンプだった。遊び感覚で跳んでみた4回転サルコー。高3の夏に、人生は大きく動き出した。

2006年3月17日。自然と産業が共生する町、福岡県北九州市に生まれた。

前日の雨空がうそのように、その日は抜けるような青空が一面に広がっていた。

快晴の日。そして、てっぺんに登って欲しいという願いを込めて、戸田家の次男は晴登と名付けられた。

活発だった幼少期。身近にあったスポーツは、スケートではなく器械体操だった。

「もう本当に物心ついた時からやっていました」

両親が営む体操教室で、約20人の生徒たちとともに指導を受ける日々を送った。学校が終わると、車で約15分の場所にあるクラブに直行。国体にも出場経験のある両親の下で厳しくも愛情深い教育を受け、気付けば体操が日常の一部になっていた。

父に跳び箱の指導を受ける幼稚園児の頃の戸田(本人提供)

父に跳び箱の指導を受ける幼稚園児の頃の戸田(本人提供)

「柔軟の時に、めっちゃ背中を押されて泣いていた記憶しかないです(笑い)」

5歳上の兄智稀はのちにトランポリンの選手になった。自身も決して競技が嫌いだったわけではない。ただ、毎日が同じことの繰り返しで、少し息苦しさを感じていた。

そんな時に出合ったのが、スケートだった。

小4の冬。

冬季限定で開く地元の北九州アイススケートセンターで、女子史上初のトリプルアクセル(3回転半)ジャンパー伊藤みどりの教室に足を運んだ。

羽生結弦や高橋大輔の名前程度は知っていたが、競技自体に自ら興味を示したわけではない。母がテレビの競技会の放送を録画するようなスケート好きだったため、「行ってみたら?」と誘われたことがきっかけだった。

「母がテレビを見ている横で、『何がいいんだろう?』と思って見ているくらいでした」

ところが、初めて氷に乗った時の感覚は、今でもよく覚えている。

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スポーツ

勝部晃多Kota Katsube

Shimane

島根県松江市生まれ。2021年4月入社。高校野球の神奈川担当などを経て、同年10月からスポーツ部に配属。バトル班として新日本プロレスやRIZINなどを担当し、故アントニオ猪木さんへの単独インタビューや武藤敬司氏の引退試合、那須川天心―武尊などを取材した。 23年2月から五輪班に移り、夏季競技はバレーボールを中心に担当。同年秋のW杯や24年夏のVNLなど。冬季競技はフィギュアスケートをメインに務め、全日本選手権は2年連続で取材中。X(旧ツイッター)のアカウントは「@kotakatsube」。