【再建ワセダの箱根を追う〈11〉】「守り」の復路で4年生が見せた意地/6、7区

早稲田大学競走部は、48回連続93度目となる箱根駅伝を総合7位で終えた。OBの名ランナー花田勝彦(52)を監督に迎えて2季目。「-Rebuild-再建ワセダを追う」と題し、優勝13回の名門の再建に取り組むチームを追ってきた連載は、2024年年始の箱根駅伝の復路に入った。チームの窮地の中、6区、7区を担ったのは4年生の2人。栁本匡哉と諸冨湧の奮闘を追った。(敬称略)

陸上

 
 

大役を務めた最上級生

花田はマイクの前に立っていた。

復路を終えたゴールエリアから程近いビルの一室。総合7位で大手町に飛び込んでから、まだ1時間もたっていない。

「報告会」

学長も出席し、部員、関係者、応援部が集っての総括の時間。

毎年、まだ終幕したばかりの箱根駅伝の余韻が参加者の言葉に熱をともす。

「7位ということでなんとかシード権を取りました。非常に安堵しておりますけれども、本当に皆さんの期待に応えられたかどうかというと、非常に厳しいご意見をいただけるんじゃないかなと思っております。ただ…」

第一声に、入り交じる感情を乗せた。続けた先にインフルエンザでの主力離脱の状況下、部員全員の奮闘をたたえた後に、重ねて強調した。

往路を終え応援団らに言葉をかける早大・花田監督(撮影・垰建太)

往路を終え応援団らに言葉をかける早大・花田監督(撮影・垰建太)

「特に4年生ですね。最後の最後にですね、踏ん張って、大役を務めてくれてですね、きっちりたすきをつなげてくれました」

調子が上がりきらず、最後の箱根路を断念することが決まった佐藤航希(4年)が、最終調整の集団走で先頭を引っ張った。

北村光(4年)はインフルエンザ感染から復調後に山で後輩のサポートに回り、往路では5区を終えた1年生の工藤慎作をねぎらった。

「活躍する人の裏では絶対支える人っていうのがあって。悔しい思いや、『来年は自分が』という思いは絶対あると思うので。支える人あっての僕らの競技だと思うので。僕も最後出られないのが確定したら、もう支える側に徹しようと」

顔には笑顔で、心で泣いた。

3区で好走した辻

3区で好走した辻

3区では辻文哉(4年)が最初で最後の箱根路で力走を見せてもいた。

そうしてつないだ往路を終えて、迎えた復路だった。

大手町のゴールから時計の針を戻すこと約6時間前、復路の芦ノ湖のスタート地点で構えていたのは4年の栁本匡哉だった。

「推薦組」の重み

「出雲、全日本で4年生がふがいない、情けない姿を見せてしまったので。そこから4年生だけでミーティングをして。『箱根だけはしっかりやっていこう』という意見も出て。僕は後輩に迷惑をかけたくないと。次、もしこれで4年生が走れずにシード落ちとかもしたら、自分たちの代、ほんと情けなかったなと思います。そういった意味でも、4年生は箱根への思いが非常に強かったかなって」

11月の全日本大学駅伝で10位に終わりシード権を逃した危機に、各学年ごとで行われたミーティング。4年は7人で集まった。

「あまり普段一緒にいることは自分たちは少ないですけど、グループで別れたりしても、ちゃんとやるときはちゃんとやる。仲は悪くはないので。そういったところでチームは1つ、大事な場面ではしっかりチームが1つになろうとすることはできたのかな」

おのおのが責任を共有し、大学生活の終わりにどんな振る舞いをすべきかを共通認識として確認する時間になった。

思えば、最初は一緒にいることが許されない時間から、同期の生活は始まっていた。

新型コロナウイルスの蔓延による影響を最も受けた世代。高校の卒業を待たずに春先から入寮生活が始まり、いよいよ年度も変わり、新1年生として大学の日々が始まる直前の3月31日、所沢の寮は閉鎖となり、別々に郷里へと帰らざるを得なかった。

物理的に一緒にいることはかなわなかった。出はなをくじかれるような現実に、大学生という立場だけが独り歩きするような、気持ちは高校4年生のような、そんな個でもあり、「孤」でもある時間は数カ月に及んだ。

愛知の実家に身を寄せた栁本は、帰寮後も競技生活自体の流れを失ったまま、1年目を過ごすことになった。

「冬に疲労骨折をしてから、高校時代にけがしてこなかった分、どうやって、どこを鍛えて次繰り返さないかも全然わからずに」

インターネットなどで調べて試行錯誤はしたが、リハビリ過程での焦りが再びケガを引き起こす悪循環。その焦りは立場的な意味合いが大きかった。

早大の練習場

早大の練習場

「トップアスリート推薦で入学していたので、1年目から結果を残さないといけないという気持ちがすごくありました」

同期で3人ほどの「推薦組」の1人。高校時代に1500メートルで日本一を経験した実績十分に、即戦力として期待されるのは当然ではあった。ただ、その使命感が余計に歯車を狂わせていった。

「正直、去年までは、もうずっとその事ばかりを考えていて…。自分の中で非常に重く抱え込んでて。どのレースにしても、何かしら、悪い言葉っていうのが耳に入ってきたりするので。自分的にもどんどん自信もなくして、メンタルもやられていって」

少数精鋭の早稲田における「推薦組」だからこその責任感が、呪縛にもなっていたのが3年目までだった。

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スポーツ

阿部健吾Kengo Abe

2008年入社後にスポーツ部(野球以外を担当します)に配属されて15年目。異動ゼロは社内でも珍種です。
どっこい、多様な競技を取材してきた強みを生かし、選手のすごみを横断的に、“特種”な記事を書きたいと奮闘してます。
ツイッターは@KengoAbe_nikkan。二児の父です。