メリークリスマス!

今回は、このすてきな季節にぴったりのイケメンレーサー高倉和士選手(27=福岡支部)のご紹介です。お父様が現役のオートレースの選手(高倉健吾選手=57)ということで、幼いころから公営競技の存在は知っていたそうですが、進路を考え始めたときに思い浮かんだのは、2世の道ではなく、ボートレースの世界でした。

高倉和士選手のお父様、高倉健吾さんは、現役のオートレーサーとして活躍されています
高倉和士選手のお父様、高倉健吾さんは、現役のオートレーサーとして活躍されています

「おやじに『ペアボートに乗ってみたい』って言って、芦屋に連れていってもらったんです。めちゃくちゃ怖かったけど、面白そうだなっていうのもあって、ちょっとやってみたいな! って最初は軽い気持ちで“選手になろう!”って思ったところがスタートでしたね」と15歳の夏を振り返ります。

その後、ご両親とも相談して高校に進学し、1年生の秋からボートの試験を受け始めたそうですが、なかなかうまくいかず、高校3年生の春にようやく最終試験までいったところで再び親御さんと具体的な話をすると「高校は卒業して欲しい」と言われて、ちょっとぶつかったこともあったとか。

「結果的に最終試験は不合格だったんですけど、そこから親といろいろ話し合って、『高校3年の秋の試験を1回あきらめて、大学受験に切り替えて勉強頑張るから、公立に受かったらまたボートの試験を受けて、そっちに受かったら大学はやめるよ。その代わり、それまではちゃんと大学にも行くし…』って親と約束しました」と進んだのは熊本大学! その2年生の春に通算6回目の試験でやまと学校に合格して111期での入学となりました。

やまと学校(現ボートレーサー養成所)での生活は「行くまでは、楽しみ半分と2次試験で学校の雰囲気とかも知ってたんで緊張半分とでしたけど、実際めっっっちゃ厳しかったです」とのこと。「でももう親にも周りにも、競艇選手になるから(やまとに)行ってくるわって出てるし、おやじが競技は違うけど、養成所卒業して選手になってるのに、自分はのこのこ帰ってきたりはできないよなぁみたいな感じで、帰るのが恥ずかしいという感覚があったんで」と自分から辞める選択肢はなかったと言います。

こうして無事にやまと学校を卒業し、ボートレーサーとしてデビューした高倉選手ですが、なんと1期目の途中から休学していた大学にも復帰します。

ご両親の思いも背負って二刀流を目指したものの「2期目終わった時の成績が1期目と変わらなさ過ぎて『そりゃそうだよなぁ。練習にもあんまり行けてなくて何も成長してないもんなぁ。やっぱ同時にやるのは甘過ぎるよなぁ』って思って結局、退学の手続きをとったんです。『ちゃんと仕事だけ頑張ろう!』って完全に大学を辞めた後、めっちゃ練習に行くようになったのもあって、ちょっとずつだけど数字として成績がしっかり見えてきてB1にも上がれて“頑張れば結果はちゃんとついてくるもんだなぁ”って思いました」とかなりの手応えを感じたようでした。

その後も練習に通い続け初のA2になった時には「よしA1や! 俺はA1になるぞ! って思ったんですけど、期始めにすぐフライング切ってずるずる成績を下げちゃったんです。A2キープの勝負駆け前にF2にもなって、勝負駆けどころのメンタルじゃなくなって…1期でまたB1になった時にはかなりへこみましたね。このころ自分がメンタル弱いっていうのをあらためて自覚しましたし、今もそのコントロールは課題です」と言いながらも、次の期にはしっかりA級に返り咲き、優出も重ねていきました。

「A2に上がってからは、初優勝とA1というのを目標にしてやってきて、やっと初優勝できたなぁと思ったらA1のおまけまでついてきました」と初優出から3年以上をかけて手にした今年10月、徳山ルーキーシリーズでの初優勝には、「うれしかったのはうれしかったんですけど、ホッとしたというかやっと優勝できたって気持ちが大きかったですね。でも、親は喜んでくれたみたいで、めちゃめちゃ長い読めないくらいのメッセージがきました」と孝行息子のいい笑顔を見せてくれました。

10月15日、徳山ボートでのルーキーシリーズで初優勝した高倉和士選手(右から2人目)は、水神祭を前に笑顔
10月15日、徳山ボートでのルーキーシリーズで初優勝した高倉和士選手(右から2人目)は、水神祭を前に笑顔
水神祭を終えて仲間に囲まれ、笑顔でVサインの高倉和士選手(前列右から2人目)
水神祭を終えて仲間に囲まれ、笑顔でVサインの高倉和士選手(前列右から2人目)

その後、ご両親から初優勝のお祝いの話があったものの、年末年始でようやくご実家に帰れるとのこと。でも、「あんまり派手に“優勝したよー!”みたいにいうのはせずに、さらっとさらーっと『ありがとう。エンジン出よったし優勝できたよ』ってくらいで伝えたいんです」と優しい気遣いも。

私が「ご両親思いですね」と伝えると「なんだかんだいって結構支えてもらってるんですよね。ケガした時とかも独り身なんでやっぱり誰かの手伝いとかいるじゃないですか? 近況でいうと、そういうのはすごい助かってるし感謝してますね。あと、一番は“やりたいようにやらせてくれてること”ですかねぇ。結局、学生の頃なんて親の理解がないと経済的にも厳しいし、じゃぁ自分でバイトして稼ぐっていっても今度はそれに時間を取られたら、好きな方向に進むための準備の時間が無くなってきて遠回りになると思うんです。けどその辺やりたいようにやらせてもらったんで、無事にというか、今、自分の目標にたどりつけてるのかなぁと思うんで、応援してくれた、好きなようにさせてくれたことに一番感謝しています」と、ご両親への思いを語ってくれました。

そうして、もう1つ芦屋にも。「B1に上がったくらいの頃から、準地元スターとか地元スターとかフレッシュルーキーまで、期間いっぱい芦屋でずっと選び続けていただいたんです。ゆっくりですけどA2とか、なんとかA1、初優勝するまでたどり着けたのはホントに芦屋で大事に育ててもらって、しっかり面倒見てもらったおかげが大きいと思いますね。じゃなかったら、多分、A1とかはるか遠くでまだ見えてなかったと思います。一番過ごしやすいレース場で、一番過ごしたレース場だから親しみがあるというか好きな場だし頑張りたいレース場です」と感謝の気持ちを忘れません。

最後に、今後の目標を尋ねると「まだなんか大きな目標っていうのは具体的に思い浮かばないんですけど、A1に上がれたので今期の6・28という点数を超える成績を毎期取りたいなと思ってます。前期の成績を次の期で超えていく…それを繰り返してちょっとずつでも上がっていけばいつかは7点になれるだろうし、そしたらいずれはもっと上の舞台に立てるんじゃないかなぁって。飛び級して跳ね上がっていくタイプではないなと思うんで、緩やかにのぼっていって、少しずつでも今の自分を超えていければいいかな」。

取材中、ずっと穏やかな笑顔で話してくれていた高倉選手。その柔らかな空気の中に、1歩1歩いろんな経験を糧にしながら積み重ねてきた強さもしっかりと感じることができました。仕事に向き合う姿勢もイケメンな、高倉選手のこれからがさらに楽しみですね。

 
 

今年の初めには1カ月の入院という大きなケガも経験した高倉選手。「けがをして余計に、無事之名馬じゃないですけど“事故之名手”と思いました。親父に教わったことでも一番大事なことだと思ってますし、初心に返って“ケガしないさせないレース”の上での成績を取れるように頑張ります!」と話してくれました。