平成最後の「KEIRINグランプリ」が30日、静岡競輪場で行われる。今回で歴代2位となる11回目の出場を果たす村上義弘(44=京都)が、2回の優勝を含めたこれまでのGPの思い出、そして競輪の未来を熱く語った。3回連載で送る。(聞き手・栗田文人)

GPは中野浩一さんが勝った第1回から見ている。時代はまだ昭和で、自分は11歳の小学5年生。競輪ファンだった父に連れられて子供のころから向日町やびわこなどの競輪場に行っていたので、競輪は身近な存在だった。特に高松宮記念杯(当時は高松宮杯)は毎年びわこに見に行っていたし、その他のG1(当時は特別競輪)も決勝はテレビで見ていた。当時から競輪選手はあこがれで、GPはその年に活躍したベストナインによる夢のレースだと思っていた。

自分は94年(平6)に競輪選手になったが、出世は遅かった。まだGPなど出場できないころ、1人の選手として見ていて一番印象に残っているレースは、99年立川の太田真一の優勝だ。神山(雄一郎)さん、吉岡(稔真)さん、小橋(正義)さんといった歴史に残るビッグネームを相手に、自分より年下で後からデビューした選手が、自分がこれから極めていきたいと思っている戦法である「先行、逃げ切り」で勝ったことに衝撃を受けた。あのレースはすごかった。

ただ、不思議と焦りは感じなかった。その翌年の00年に自分もふるさとダービー豊橋で初めてG2を勝ち、最後までGP出場を狙える位置にいながら、結局、出場権は得られなかった。それでも、悔しいというよりは「まだその時期ではない。まだまだ積み上げる時だ」と思っていた。

02年、デビュー9年目にして初めてGPの出場権を得た。この年は、3月立川の日本選手権で初めてG1の決勝に乗った思い出深い年でもある。どんな世界でも、日本選手権というのは一番大きい大会。選手として挑み続ける大会だと思っていた…、いや、今でも思っている。だからこそ、この決勝進出はうれしかった。この年、親とさえ思っている同郷の先輩の松本整さんが自分の先行に乗って7月前橋の寛仁親王牌を勝った。このことで「この後、自分が頑張れば一緒にGPで走れる」と気合が入り、強い目標になったことをよく覚えている。

松本さんは高校3年のときに出会って以来、本当にかわいがってもらった。当時は、選手になってしまえば、後は練習もそこそこにマージャン、ゴルフ、酒、タバコ…という選手が多かった。そんな周りの雰囲気の中、松本さんは「競輪のために無駄なことは、できる限り省く」という生き方を教えてくれた。あそこまで競輪に向き合った人はいない。

自分は逃げて3着、松本さんは競られて9着と、思い描いたような結果は出なかった。ただ、一緒にGPに乗れて本当に良かった。レース直後に松本さんに「来年また一緒に走らせてください」と言ったことも忘れられない思い出だ(これは夢に終わったが)。いい「親孝行」になったと思っている。