実は8年間、サッカーの現場から離れたことがある。国士舘大の学長を務めていた04年にサッカー部で不祥事が起きた。私はその責任を取って、日本サッカー協会の理事職など、サッカー界すべての役職から降りた。国士舘大のサッカー部からも一切手を引き、学長業務に専念した。

20代前半にサッカーの指導者になった私にとっては、耐えられない時間だった。しかし、けじめは大事だ。一生現場からは手を引こうと思っていた。

その日は突然やってきた。13年7月中旬。大学で理事長になっていた私のもとに、キャプテンの石川君ら当時のサッカー部員4人が訪ねてきた。いきなり言われた。「先生、勝たせてください」。「えっ? どういうこと? そもそも君らは何で、ここに来ることになったんだ?」。疑問だらけの初対面だった。

当時関東リーグ1部所属の国士舘大は8連敗スタートで、前期11試合終了時点でつかんだ勝ち点は3点のみ。悩んだ石川主将が、リーグ戦の中断期間に出身校の広島皆実高の監督に、勝つためのこつを聞いたところ「君らのところの理事長に聞けばいい」と言われたという。

それまで、私はサッカーの現場からは離れていたが、リーグ戦には足を運び、スタンドの片隅で目立たないように応援していた。敗因は自分なりに分析していたが、声を出したり、意見をサッカー部に伝えることはなく見守るだけだった。歯がゆい気持ちを押し殺して「このままでは2部に落ちるかも」と心配するだけだった。

そのタイミングで、かわいい学生たちが相談に来てくれたわけだ。抑えていた指導者の本能と魂が少しずつ目覚めてくる。

「みんな頑張っているんです。でも勝てないんです。とにかく勝ちたい。でも今のままでは後期が始まっても勝てないです」

「分かった。少し考えさせて」と言って、学生4人を帰した。

その日の夜から、細田監督と2日連続で改善策を話した。2日目の夜、細田監督から「先生、よろしくお願いします」とサッカー部を託された。「分かった。その代わり、オレは監督以上のことをやるぞ」と伝えた。監督以上のこととは、中途半端にはやらない、命懸けでやる、という私なりの意思表明だった。理事長を務めながら、テクニカルアドバイザーとしてサッカー部の現場に戻った。

後期開始までは1カ月半。チームを画期的に変化させられるには、時間がなさ過ぎる。変えたのは、基本に立ち返ったこと。サッカーは大きく攻撃と守備。その基本は、攻撃時はピッチを広く使い、守備時は相手にピッチを狭く使わせることだ。

横幅を十分に活用すると、相手守備は選手間の距離が広がり、守備の編み目が緩くなる。守備時は相手の攻撃ルートを制限し、右か左に限定させると、味方選手の距離感が縮まって効果的に守ることができる。

それができるようにするには、ボールの出どころの勝負で勝つことが大事だ。ボールを出す人、それを阻止する人が1対1で当たると勝率は半分かもしれないが、味方の助けがあれば、勝てる確率は高くなる。ボールを奪わなくても、相手攻撃時に攻撃コースを限定させることもできる。これは攻撃時も同じ。相手より速く動く、1歩先を動くには、それ相応の体力が必要だ。

練習メニューに、3日に1度のクーパー走(12分間走)を取り入れ、クーパー走のない日は、練習の最後の30分は山道などを走る持久走を実施した。夏場で苦しかったと思うが、学生たちは勝ちたい一念からか、一生懸命ついてきてくれた。のちに石川主将からは「走るのはきつかった。先生に『勝たせてください』とお願いに行ったことを後悔しました」と笑いながら言われた。

体力面で自信をつけ、攻守のバランスが取れ、後期の11試合は10勝1分けの勝ち点31を取った。トータルで勝ち点34の全体4位になり、インカレ(全日本大学選手権)出場権を獲得した。そのインカレ。旧国立競技場での最後の大会だった。決勝まで進んで大体大と対戦し、1-3の逆転負けを喫した。ロッカールームでは全員が号泣していた。最後のミーティングができず、私は10分程度、外に出た。

戻った第一声。「もういいか? あ~、良かったよ、勝たなくて」。そして続けた。「みんな泣いてるね。悔しいか? オレは違うよ。負けて良かったと思ってるよ。1カ月そこそこやって日本一になるなんて、甘いんだよ、その考えが。君たちを勝たせてあげたかったけれど、オレはできなかった。あれだけやったんだ、この悔しさを大事にしとけ。君たちはこれから指導者になるんだよな。日本一の指導者になってくれよ」。

50年の指導者人生。学生たち以上に、私自身が大きな宝物を得た半年間だった。貴重な時間を与えてくれた学生たちにこの場を借りて伝えたい。

「ありがとう」

(大澤英雄=学校法人国士舘理事長)

(ニッカンスポーツ・コム/サッカーコラム「サッカー人生70年 国士舘大理事長 大澤英雄」)