サッカー日本代表はW杯で3度、16強入りしているが、8強へは足踏みが続く。前回の18年ロシア大会でもベルギーに2点をリードしながら、土壇場でひっくり返された。ベスト8を目標に掲げる森保ジャパンが、未踏の地に到達するには何が必要か? 世界最高峰のエベレスト登頂に3度目で成功した登山家の野口健氏(49)が、自らの経験をもとに壁を乗り越えるための準備と心構えを語った。【取材・構成=岡崎悠利】

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野口氏は熱のこもった声で、森保ジャパンへの思いを語った。

「W杯は登山家にとってのエベレストですよね」

目指すものは同じ、世界の頂。登山の際は左腕に日の丸をつけて山に向かう。

「世界に対して、どんな日本を見せられるか」

結果はもちろん、フェアプレーなど日本の価値を上げるような戦いぶりに期待している。

チームが目標に掲げるのはW杯史上初の8強進出だ。02年、10年、18年と3度挑戦したが、世界の厚い壁にはね返されている。

「足踏みに見えるかもしれないが、そこで得たものが必ずある」

自身も99年にエベレスト登頂を達成するまでに、2度の撤退を経験している。初挑戦は97年、23歳のとき。数々の山を一発でクリアし、勢いに乗っていた。

「根拠のない自信があった。それまでは若さに運もそろい、実力を超えるような結果も出ていた。だが、エベレストには通用しなかった」

低酸素に慣れるための作業が足りず、高山病になって気を失い救助された。

「メンタル、体力、技術、経験の不足を残酷なほど突きつけられた」

02年W杯日韓大会で初めて決勝トーナメントの世界に踏み込んだトルシエジャパンもまた、ホーム開催という後押しとともに勝ち進んだ。ただ、8強は勢いありきで進める世界ではないことも思い知らされた。

約1年半、みっちりと鍛えて臨んだ98年。2度目の挑戦は、あと1歩だった。標高8848メートルの山頂まで残り約400メートルの地点。あちこちに転がる凍った遺体を目にしながら、いよいよというところで悪天候に見舞われた。岩陰で吹雪をこらえながら目をつぶった。

「片足が棺おけに入った感覚が明確にあった。(登頂は)ぎりぎりのところ」。生還の確率は50%。そう直感が言っていた。

イメージした。山頂に立つ自分は想像できた。ただ、下山を完了する姿までは思い描けなかった。「もし10回死ねるなら、1回くらいエベレストで死んでやる。でも1回死んだら終わりなんだ」。コントロールしようがない天気に対して、リスクは負えなかった。

ゴールは見えていた。だが届かなかった。前回ロシア大会の西野ジャパンに重なる部分がある。2点を先制し、勝利が見えた。そこから2点を奪われ、後半ロスタイムにひっくり返された試合だ。

野口氏には、1回目で課題が見えた。2回目で悪天候の不運がなければいける自信をつかめた。撤退から分析を重ね、命に関わるような不測の事態にも、冷静に対処するすべを身につけた。そして99年5月、満を持して臨んだ3度目で悲願のエベレストを制した。

「人生はトータルでいい。49%は失敗でも、51%うまくいけばいいんだ」

地球最高度の地からの景色が、そう語りかけてきた。

森保ジャパンのW杯アジア予選の戦いはチェックしていた。

「ひょっとしたら(W杯に)出られないかもしれないというところから、盛り返した。あそこから得たものは大きい。瀬戸際から立て直したからこそ、ここから出る結果というものがあると思います」

苦境を乗り越えたチームだからこその糧、団結力があると信じている。4度目の8強への挑戦。苦い記憶をつないできた日本代表の歴史が変わる瞬間を、世界最高峰のアルピニストも心待ちにしている。

◆野口健(のぐち・けん)1973年(昭48)8月21日、米国マサチューセッツ州ボストン生まれ。小4で初めて来日。中学時代に植村直己の著書「青春を山に賭けて」に感銘を受け登山を開始。亜大に進み、90年に16歳でモンブラン(標高4810メートル)を登頂。99年に25歳でエベレストを制し、当時の7大陸最高峰登頂の世界最年少記録(当時)を樹立。以降は環境保護のためエベレストなどの清掃活動を開始。NPO法人「ピーク・エイド」代表。