最終回は、国立競技場やJ2町田のクラブハウス設計に携わるなど、サッカーとの関わりが深い建築家で東大特別教授・名誉教授の隈研吾氏(68)。不遇の時代に励まされたサッカーへの愛情は強い。海外の有名な建築家とのコンペに挑む「和の大家」は、自身の経験をもとに“勝つコツ”を語った。【取材・構成=磯綾乃】

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今から29年前。1人の選手のひたむきさに、隈氏は目を奪われていた。

隈氏 僕は、いまだに忘れられないな。負けている時に、中山(雅史)がぎりぎりのところまで球を追っかけてゴールを決めて。また、球を持ってセンター(サークル)まで走って行った。

93年10月18日。W杯米国大会のアジア最終予選イラン戦。試合終了間際、2点ビハインドでも、中山はあきらめていなかった。ゴールラインギリギリのボールに気迫で滑り込み、そこからシュート。すぐに相手からボールを奪い取ると、センターサークルへと走った。

その後、ドーハの悲劇で日本のW杯初出場は幻となったが、その10日前、窮地でも戦い続ける日本の、中山の姿に、自然と勇気づけられた。

隈氏 92年にバブルがはじけて、東京の仕事がみんなキャンセルされた。93年は本当に、仕事も何もない時期だった。すごく大変な時に、頑張っているゴンを見て、励まされた気がしました。サッカーって、人間の生きざまがすごく伝わってくる。自分の置かれた状況に対して、どういう対応をして頑張るか。心に響くものがありますね。

不遇の時に光をくれたサッカー。国立競技場やJ2町田のクラブハウスを手がけ、今も縁は深い。「ちょうど、パリ・サンジェルマンのスタジアムのすぐ下にある、駅の設計をしているんです」。仕事で大切にする“チームビルディング”にも通じるものがある。

隈氏 1人で考えるのはあまり良くなくて、みんなで話し合うことが大事。僕はいつも、それを「パス回し」って言ってるんだよね。「俺たちはマラドーナでもない。1人でドリブルし続けるわけにもいかないから、パス回しで行こう」って(笑い)。結果を考えすぎると、焦りも出る。いい関係ができれば、自動的に建物も良くなると、僕は信じているんです。

結果は、後からついてくるもの。森保ジャパンを後押ししてくれる言葉だ。

「サッカー選手と、すごく似てると思うな」。建築家の仕事を、リーグ戦になぞらえた。

隈氏 海外で仕事をやるにはほとんどの場合、コンペで勝ち残らなきゃいけない。1週間に1回ぐらいやっているかな。サッカー選手が毎週ゲームをやるのと同じように、僕らも毎週、戦っている感じがします。

日々の「戦い」に勝つコツは、切り替える力。まず1次リーグ3試合を戦う日本代表にも重なる部分がある。

隈氏 もちろん勝つこともあれば、負けることもある。その時はめちゃくちゃ悔しいけど、次の朝になったら(切り替えて)「良い天気だ」、みたいな。そういう体質じゃないと、この仕事はできない。

海を越えて活躍する隈氏にも、最初は“世界の壁”があった。「海外の有名な建築家がビッグに見えて、勝つ、なんてできるのかなって」。00年頃から海外のコンペに応募を開始。5~6年たって少しずつ、採用されるようになった。

隈氏 勝てるようになってくると、勝つコツみたいなものが分かる。それは、ある種のあきらめの良さみたいなもの。「この案でだめだったら、負けても別にいいや」という。勝つ経験をすると、逆に、だんだん負けることが怖くなくなるんです。

W杯出場さえできなかったところから、日本代表も1勝ずつ、経験してきた。カタールで7大会連続出場。目指すは、未踏の8強となる-。

隈氏 負けを怖がらなかったら、目標が達成できるんじゃないかな。

夢を追う選手たちのように、隈氏が抱く夢。それは、誰もが親しめるW杯が開催されるスタジアムを作ること。

隈氏 街に開かれた感じがするものがいい。街の人がそこで行われている試合を感じることができる、そんなスタジアムが設計できたらいいなと思います。そして、自分もそこで大騒ぎしてみたい。

木の温かみと日本らしさに包まれたスタジアム。日本代表を応援する声が、街中に響く-。隈氏の頭の中に、未来の設計図はもう描かれている。(おわり)

 

◆隈研吾(くま・けんご)1954年(昭29)8月8日生まれ、神奈川・横浜市出身。90年に隈研吾建築都市設計事務所を設立。慶大教授、東大教授をへて、現在は東大特別教授・名誉教授。30を超える国々でプロジェクトが進行中。自然と技術と人間の新しい関係を切り開く建築を提案。主な著書に『全仕事』(大和書房)、『点・線・面』(岩波書店)、『負ける建築』(岩波書店)など。

 

◆日本のW杯米国大会予選 W杯初出場を目指し、93年にアジア最終予選を戦った。現在とは違いドーハでの集中開催だった。初戦はサウジアラビアと0-0。第2戦はイランを相手にFW中山のゴールで追い上げたが、1-2で敗れた。その後、スタメン変更などを行って持ち直し、第4戦を終えて首位に立つ。続くイラクとの最終戦はFWカズ、中山のゴールで2-1と終盤までリード。このまま勝てば悲願のW杯初出場だったが、後半ロスタイムに同点ゴールを許し夢がついえた。この場面はいまも「ドーハの悲劇」として語り継がれている。