2010年の11月20日に、Jリーグの名古屋グランパスというクラブがリーグ初優勝を成し遂げた。圧倒的な強さで悲願のタイトルをつかみ取り、主将の楢崎正剛がシャーレ(優勝銀皿)を掲げた。それぞれの立場から、この10年と今を描く連載「グランパスVから10年」。過去に10年ほど担当した元記者がお届けする。(敬称略)

  ◇   ◇   ◇

サッカーは楽しむものだと、阿部翔平は信じてピッチに立ち続けている。36歳になった今も現役、「渋谷からJリーグを目指すフットボールクラブ」、東京都社会人2部リーグのTOKYO CITY FC(来季からSHIBUYA CITY FCに名称変更)でプレーしている。

元日本代表は、J1から数え、8番目のカテゴリーでプレーを続けている。

加入から2年になる。当時はJリーグのクラブからの誘いもあったが「次の何かを見据えながらサッカーができたらいい」「競技としてやりながら、違う見方を身につけたかった」と、思い切った1歩を踏み出した。

コロナ禍で、特別なシーズンとなった今季も、ここまでリーグ全6試合に出場し、コーチ兼任という立場で、チームを引っ張っている。

無敗で順調に勝ち点を積み上げ、1部昇格のかかる、12月の優勝・昇格決定戦(2試合制)へと駒を進めている。

10年前とはいえ、Jリーグで優勝を果たしたその経験は、たくさんの元Jリーガーがいるが、やはり特別だ。

2006年に名古屋グランパスに加入し、強くなっていく時期を主力としてよく知っている。

2008年のピクシーこと、ドラガン・ストイコビッチの監督就任で、それまで感じたことのない感覚を得たという。

「いい風が吹いているなと思ったんです、ピクシーが就任してクラブに戻ってきた時から」

阿部は前任者のオランダ人監督、セフ・フェルフォーセンに見いだされ、レギュラーに定着した。

そのフェルフォーセンが、オランダの強豪PSVに引き抜かれた時に真っ先に連れていこうとした逸材が、この小柄なサイドバックだった。

ピクシーからも迷わず左サイドバックに据えられ、不動のレギュラーとして重用された。

高い技術があるから、どんな局面でも落ち着いていた。いつもひょうひょうとプレーし、それでいてパワフルな左足のキックで、一気に局面を変えられる力があった。

まるで教授のように、細かく丁寧にサッカーを教え込んで土台をつくった前任者と違い、帰ってきたピクシーは試合をケーキだと言った。

つまり、厳しい練習のご褒美だと。そして選手にこう告げた。「エンジョイ」と。

もっとも、優勝した10年は「エンジョイ」でスタートしたストイコビッチ体制も3年目。就任1年目に、流れるような美しいサッカーで魅了し、3位に入った当時とはだいぶ違っていた。

就任会見で「ピクシーがやると言ったら、やる」と大見えを切った。そのために、なりふり構わず、09年から一気に現実路線になっていく。

その年に対戦した浦和レッズの監督、フォルカー・フィンケからは「“鉄の棒を折るようなサッカー”」と皮肉られたこともあったが、突き進んだ。

繰り返し大型補強も行い、強くて、大きくて、文字通り、鉄の棒さえも折ることができそうな編成になっていた。それが勝負の2010年だった。

楢崎正剛、田中マルクス闘莉王&増川隆洋、ダニルソン、そしてケネディと並ぶセンターラインは、文字通り頭ひとつ抜けていた。

前線では、玉田圭司が1人別次元のテクニックを発揮。違いを示して胸を張っていた。

阿部は「ストロングポイントが分かりやすかったですね。もう、ひきょうなくらいに(笑い)。ケネディの高さ、ダニルソンの強さ、タマさんのうまさ、そして後ろにナラさん、トゥーさん、マスさんですから」

同時に阿部は悟った。どうすればいいかを。

「まわりの選手がみんなうまかったので、僕はバランサーに徹しようと。それだけを考えていました。僕は勝利を決める存在ではなく、まわりの選手が決めてくれる、そう思っていました」

逆の右サイドには、とにかく上下動する田中隼磨もいた。前線には、相手の裏に走ってかき回す小川佳純もいた。

中盤には中村直志、吉村圭司のいぶし銀もいて、存分に献身性を発揮した。

ピッチでは、脇役と呼んでは失礼なほどの実力者が、進んで“水を運ぶ役”をこなしていた。

2010年、待ちに待った瞬間、悲願の初優勝は、3試合を残して成し遂げた。同じ条件下ではJリーグの最速記録だった。

コロナ禍で降格のない異例のシーズンとなった今季、その記録を、ぶっちぎりで優勝した川崎フロンターレに、残り4試合に塗り替えられたが、この10年間は破られなかった。

阿部の言葉を借りるなら「ひきょうなくらい」強かった、名古屋グランパスにも、そんな時代があった。

(つづく)【八反誠】