1968年メキシコ五輪銅メダルの快挙で、日本サッカー界は活気に満ちた。釜本邦茂、杉山隆一の2大スターを見るために日本リーグの観客動員は大幅に増えた。同五輪後の11月17日、杉山の三菱重工と釜本のヤンマーの一戦には、東京・国立競技場に4万人が詰め掛けた。日本リーグ史上3位タイの大観衆は、当時のスポーツ界では記録的な動員で、テレビもNHK教育(現Eテレ)など3局が中継した。

現在のJリーグの前身になった日本リーグは、東京五輪特別コーチとして来日したデットマール・クラマーの提言で発足した。代表チームを強化するには、欧州のようなトップリーグを創設して、選手のレベルを上げる必要性を訴えた。

クラマー 東京五輪の後にリーグをつくるべきだと言った。そうでないと、これ以上の成長は望めない。なんとしてもリーグを作らなければならなかった。ヤンマーや古河といった参加企業と交渉し、選手は夕方から練習に参加できるようにさせた。

代表監督の長沼健、コーチの岡野俊一郎らも発足準備に奔走した。当時はまだアマチュアが全国リーグをするなど社会常識では受け入れられなかった。それでも8企業が賛同し、65年に開幕。ただ、観客席のある競技場も少なく、高校のグラウンドにロープを張って運営したこともあった。

クラマーは他にも、芝のグラウンドを増やすこと、日本代表は毎年、欧州に強化遠征に出ることも進言した。そして、もう1つ、将来への種まきが指導者の育成だった。

69年7月、国際サッカー連盟主催のコーチングスクールを開催。クラマーが講師を務め、3カ月間みっちり毎日4時間の講義を実施した。後の日本代表監督になる加茂周ら、アジア12カ国42人が参加した。その後も日本各地で講習会を開き、底辺を広げていった。

クラマー 指導者にとって最も大事なのは、自分の哲学を納得させること。暴力や権威を振りかざすのではない。自分のサッカー観の正しさを証明してみせなければならない。練習のときは、効果的な話し方を見につけておく必要がある。言語とは道具にすぎない。大事なのは何をしゃべるかではなく、どうしゃべるのかだ。

東京五輪前、日本サッカーの危機を救い、未来へ発展する土台をつくった。そこに妥協や打算はなかった。情熱のドイツ人は今もなお、日本サッカー界にやさしく、厳しいまなざしを向けている。

日本が1次リーグで敗退した06年W杯ドイツ大会。その2カ月後、知的障害者によるもう1つのW杯が開催された。日本ハンディキャップサッカー連盟の会長も務める長沼は、選手団長としてドイツに同行した。日本は開幕戦で地元ドイツに完敗。翌朝、長沼のホテルに電話があった。試合をテレビで見たクラマーからだった。

長沼 突然で驚いた。日本の監督に伝えて欲しいと、試合を分析して改善点を指摘してくれた。それを書いたメモがファクスで5枚も送られてきた。クラさんは「少しでも日本の役に立つことがあるなら」と言っていた。今でも、日本サッカーの父であり続けているんです。

(終わり=敬称略)【西尾雅治】

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