「お前たち、強くなりたいか」。島原商を全国レベルの強豪に育てた小嶺忠敏が、国見に赴任して2年目の夏だった。初めてインターハイに出場したが、全国舞台の洗礼を浴びて1回戦負け。試合後、うなだれて悔し涙を見せる選手を見た指揮官は、厳しい言葉を選手たちに投げかけた。

赴任時から指導を受けた国見OBは「『勝ちたいか』と言われて、みんな勝ちたいですと必死に答えていました。『よし、絶対に勝たせてやる。だが、これからは今の何十倍もの練習をしないと、上には行けん。甘っちょろい考えではダメだ。お前たちが3年生になったら日本一を絶対やるからな』と。その時からですね。本格的に厳しさや練習量が増したのは」と当時を振り返っている。

「鬼」と呼ばれた島原商時代の厳しさが復活した。小嶺は負けた直後から急きょ、新潟遠征を敢行。夏休みを利用した約30日の武者修行に、選手を引き連れて出かけた。毎日、朝7時から1日4試合をこなした。

同OBは「朝1試合してから朝食だったので、みんなその試合のことを朝食みたいに『モーニング』と呼んでいました。365日練習の日々。僕らのころは、たぶん年間、400試合ぐらいしてたんじゃないですか。土日の練習試合では1日5、6試合することもありましたからね。これだけ練習してたし、3年生の時は日本一になるのが当たり前のような気持ちになっていました。当時について『モルモットにしてすまんかった』とよく言われます」と振り返る。

そして「小嶺サッカー」は監督就任3年目に早くも実を結ぶ。最初の全国タイトルは86年夏のインターハイV。前橋商(群馬)、滝川二(兵庫)、広島工(広島)、鹿児島実(鹿児島)を破り決勝戦へ。中京(愛知、現中京大中京)を下し、初の「日本一」を手にした。

当時の国見高グラウンドは野球部と共用のため、隣町まで出かけて町民グラウンドを使用した。そのため部員は必然的に毎日、高校から練習場までの片道6キロを走って往復。また、毎週末に練習試合が組まれ、内容が悪ければサッカーグラウンドを何周も走らされた。小嶺が「試行錯誤だった」と振り返る練習メニューは徐々に確立されていったが、ほとんどの教え子が「よく走っていた」と回顧している。

00年の国体で得点王に輝き、その年の「高校3冠」達成に貢献したJ2熊本FW松橋章太は、中学時の100メートル11秒フラットの俊足を買われ、小嶺が熱心に勧誘しただけあり、走力には自信があった。それでも走るメニューには閉口したという。

松橋「サッカーをするなら国見というのがあったんですが、練習はきつくてね。早く終わらないかなと。鬼と思っていましたよ。でも、あの走り込みがあったから今、身になっている」。

85年夏。それは伝統づくりへのターニングポイントだった。(つづく=敬称略)【菊川光一】

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◆国見の86年インターハイ初優勝VTR 国見が中京(愛知)に3-2で逆転勝ちした。中京が先制しては国見が追いつく試合展開だったが、徐々に国見の速い動きに中京DF陣が集中力を欠き始める。2-2の後半29分、訓練していたスローインからつなぎFW村田がこの日2点目を決め、勝ち越した。シュート数は国見の22本に対して中京8本だった。