母校の島原商をインターハイ優勝に導くなど、輝かしい功績を残した小嶺忠敏は、84年4月に国見へ赴任した。サッカー部は県新人戦で1度8強入りしただけの「弱小軍団」。しかも、当時、学校は生徒が吸ったたばこで火事騒動が起こったり、生徒が校庭でオートバイを乗り回すなど荒れていた。知人に「あそこ(国見)にだけは行くな」と忠告され、大商大時代の恩師にもかなり反対された。しかし、新たな挑戦への決意は固かった。

77年に、当時国見の校長だった中村康次から誘われた事がきっかけになった。「サッカーで国見高校を活性化したい」という願いがあった中村は、島原商で活躍していた小嶺に会い「来てもらえないか」と熱意を伝えた。だが、この時はタイミングなどが合わずに実現しない。その後、長崎県教育委員会の教育次長に就任していた中村は、転勤の時期を迎えていた小嶺に再度要請する。本人の意思を確認した上で、異動が発令されたのだった。

国見町は島原商サッカー部OBの公務員や教職員が多く、少年サッカーも盛んな土地柄。「普通高校から大学サッカーにつなげたい」。地元の小学生から一貫して育てる夢を抱いていた小嶺にとっては、最適の赴任地だったのだ。

長崎県の公立高校の教員は、市部、郡部、離島のすべての学校に1度は転勤することが義務づけられている。しかし、当時の同委員会の立場としては「(小嶺は)スポーツ界の宝、本土の方がサッカーの手腕を発揮しやすいだろう」という判断だったという。そのため、離島赴任の選択肢は基本的になく、郡部の国見に転勤することになった。小嶺は教員生活の中で1度も離島には赴任していない。このことも異例なら、同一校で教頭、校長に昇進して定年を迎えるのも異例。人事のルールより、処遇が優先されるというまれなケースだった。

中村「国見の生徒は彼が赴任してから元気づきましたよ。国見町がサッカーの町になったのも彼のおかげでしょう。人事においての批判もあったのは確かだが、私は異動させて正解だったと思っています」。

小嶺「最初、国見ではすべてが試行錯誤でしたね。まったくの素人集団ですから。でも島原商で指導した経験が生きた。ここまでやれば日本一になれるという経験がありましたからね。ノウハウは築かれていた。国見では(島原商時代の)原点に戻ったまでです」。

88年、国見校内に86年のインターハイ優勝と選手権準優勝、87年のインターハイ準優勝、選手権優勝の文字が刻まれた記念碑が建てられた。その後、全国タイトルを獲得する度に、栄誉が刻み込まれていった。小嶺は多くの人々の期待を一身に背負い、プレッシャーもかかる中、自身の意志を貫き着実に結果を出していった。(つづく=敬称略)【菊川光一】

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◆高校サッカー複数校で優勝歴のある主な監督 小嶺は島原商で77年にインターハイ優勝、国見では選手権優勝6度などを記録。09年度選手権で山梨学院大付を初優勝に導いた横森巧は、韮崎(山梨)時代の75年にインターハイ優勝。本田裕一郎は、流経大柏(千葉)で07年度選手権、08年インターハイ優勝。習志野(千葉)時代の95年にインターハイを制している。