将来、選手権V6回の全国屈指の強豪校となる国見だが、小嶺忠敏が赴任した時はまさにゼロからのスタートだった。それでも、小嶺には早い時期に、全国レベルの「戦う集団」に育て上げる自信はあった。

しかし、いきなりサッカー部の現状につまずくことになる。1年目は「指導が厳しいらしいぞ」という風評で約30人いた部員は退部が続出して2、3年生7人に激減。新入生が20人入部してひとまずピンチは脱した。だが、言われないと練習しない、だれも見ていないとキャッチボールで遊ぶ…。まるで仲良しクラブのような現状を改革しなければならなかった。

日本一を経験しており、チームづくりのノウハウはあった。だが、まずはやる気を起こさせないと何も始まらない。雑草が生い茂ったグラウンド整備、サッカーボールの空気入れを小嶺自ら実践してみせてレクリエーション的な練習メニューを導入。練習に参加させるために1軒1軒自宅へ送迎…。厳しい指導を知る島原商サッカー部OBが「あの小嶺先生がどうしたんだろう」と驚く姿だった。

赴任時から指導を受けた国見OBによると「人に言う前に動くというのが、指導の一環にあったんでしょう。自ら動くことで変化が生まれると思われていたようです。実際(赴任から)3カ月で生徒から率先してやるようになりましたからね」という。

小嶺の監督就任時に2年生だった元日本代表FWで、J2熊本監督の高木琢也は「人への気遣い、思いやりなど、人間形成の部分での大切さを学んだ」という。「まず人間教育から始めた」(小嶺)。“人づくり”が常勝軍団への第1歩だった。

現在、サッカー部が主に使用している同校グラウンドは夜間照明が4基設置されている。だが、当時は練習環境も恵まれてはいなかった。野球部と練習は共用になるため、隣町の町民グラウンドを使用。ゴールポストもなかったため、近所の鉄工所で鉄パイプとコンクリートでゴールポストを作ってもらった。ネットは漁業従事者から網をもらい調達した。バスや自家用車のライトを照らして夜間練習させた。

それだけではない。部活動がもともと盛んでなかったため、ほとんどの教師から理解が得られない。週末に部活動をする慣習がなかったことから、マイクロバスでの遠征も職員の反対にあい、容易に実行できなかったそうだ。

小嶺「ゴールを5万円で作ってもらってね。ネットはノリ漁の網だった。試行錯誤、何もかも工夫が必要だった。すべての部活動で島原市までしか行った歴史がなく、遠征への理解がなくてね。練習試合は隠れてやってましたよ」。

人一倍苦労もしたが、決して弱音を吐くことはなかった。(つづく=敬称略)【菊川光一】

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◆小嶺の島原商での「鬼」指導 溶岩の塊「焼山」までの往復12キロランニングのほか、試合内容や結果が悪いと、ハーフタイムにも容赦なく走らせた。試験の点数が悪いと、ペナルティーとして机とイスをグラウンドに運ばせて勉強させた。試合に負けている時、ハーフタイムに鉄拳をふるい、気合を注入したこともある。