元日本代表監督のイビチャ・オシム氏が1日、80歳でこの世を去った。哲学的な言い回し、独自の練習法などで「日本代表の日本化」を目指した知将。日本への愛も深く、脳梗塞で倒れて退任後も、その思いは多くの関係者に受け継がれている。数々の証言から、その功績を見つめ直す。

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1日に80歳で亡くなった元日本代表監督のイビチャ・オシムさんの影響を受け、その指導理念を子どもたちの育成に引き継ぐ指導者がいる。ジェフ千葉や京都サンガで普及・育成に携わり、現在は大体大客員教授、NPO法人IKO市原アカデミー理事長を努める池上正氏(65)だ。池上氏は50万人以上の子どもを指導し、ジュニア年代の神コーチとも言われる。

池上氏は、02年にジェフ千葉入りし、その1年後にオシムさんがチームにやってきた。「背の高い大きな方で驚いた」と最初の出会いの印象を語るが、その翌日からもっと驚くことが待っていた。オシムさんの練習は、最初の1年は毎日メニューが変わり、1日と同じものはなかった。「私たちが教わってきた練習は積み上げ方式。1つのことができるようになるために、何回も練習する。でも、オシムさんの練習にはそういうものがまったくなかった」という。

オシムさんは「動きながら考える」ことを選手に要求した。何種類もの色の違うビブスをつけた選手たちが、ピッチの中でボールを奪い合い、素早い判断でパスを選択する。日本では見たこともない練習で、選手たちを鍛えていった。「オシムさんには日本のサッカーを海外のレベルまで引き上げるという使命があったと思います。私も含め、チームの関係者が日本人でもできるんだというところを本当に見せていただきました」と池上氏はいう。

「オシムさんはチームに関わるあらゆる人をファミリーと呼んで大切にした」と池上氏は言う。試合に向けた練習では、スタメン組と控え組という分け方は絶対にしなかった。「全員が一緒に戦う」というコンセプトで、誰が出るか分からない状況をあえてつくっていた。実際、コーチ陣がどう見ても先発は難しいと思うような選手でも、先発に使いチームの中で機能させたこともあった。

就任1年目はチームが資金難で、トップチーム全員を遠征に連れていくことができないこともあった。そんな時には「オレは誰を連れていかないなんて決められない。オレは日帰りでいい。オレの部屋を使っていいから全員を連れていきたい」と言って当時GMだった祖母井氏を困らせたこともあった。

選手だけではなく、チームのスタッフやサポーターも大切にした。自分の誕生日に、練習場を訪れたサポーターを監督室に招き入れ、マネジャーに買ってこさせたケーキをスタッフらと一緒に振る舞ったこともあった。監督室には、翌日の試合の先発メンバーが掲示板に貼りだしてあったが、オシムさんは気にもしなかったという。

池上氏は、当時チームの地域貢献の一環として「お届け隊」と称し、市原市などの小学校や幼稚園、保育園などでサッカーを教えていた。コーチ仲間と練習メニューを考えているとオシムさんがやってきた。

「子どもたちのためにどんなメニューがいいか」と尋ねると「サッカーのやり方を教えるんじゃなく、サッカーすることを教えなさい」という言葉が返ってきた。蹴り方や止め方などの練習をするより、サッカーの試合そのものを体験させて面白さを学んでほしいという思いだった。

「子どもの間は試合をたくさんやればいい、それがオシムさんの考えで、私の指導では、今でもゲーム、ゲームです」と池上氏は、今でもオシムさんの考えを継承している。「動きながら考える」サッカーも、池上氏の指導のベースに生き続けている。【桝田朗】

◆池上正(いけがみ・ただし)1956年(昭31)10月31日生まれ。大阪府出身。大体大卒業後にサッカーの指導者となり、02年にジェフ千葉入り。普及・育成部長などを務め11年1月に退団。12年2月に京都サンガに入団し、普及・育成部長などを務め16年に退任。現在は大体大客員教授、NPO法人IKO市原アカデミー理事長。「サッカーで子どもをぐんぐん伸ばす11の魔法」(小学館)など著書多数。

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