[ 2013年12月25日14時15分

 紙面から ]会見で泣いてしまった安藤美姫(2006年2月19日)<連載第1回>

 この「事件」を覚えている人はいるだろう。だが、映像を見た人は少ないはずだ。なぜなら、テレビ各局の“配慮”で、日本では放送されなかったから。06年トリノ五輪。直前会見で、安藤は号泣した。1つの質問によって。

 「亡くなったお父さんに、どんな誓いを持って滑りたいですか」

 小学3年の6月に交通事故で亡くなった父幹高さんのことは、1年2カ月前の全日本選手権で涙したことで、自然と触れにくい話題となっていた。そこを、普段はスケートを担当しないテレビ局の記者が尋ねた。「プライベートなので、そういう質問にはお答えできません…」。涙ながらの返答に騒然となった。打ち切られた会見場には、混乱だけが残された。

 直後だった。滑走順の抽選が、会場を移して行われた。急いで移動したその場で、笑いながら普段通りに選手仲間と話す姿を目にした。そして迎えたショートプログラム。「戦場のメリークリスマス」を滑り終えた後だった。「終わったので明かしますが、初めてこの曲を聞いたとき、父のことを思い出したんです」。

 2日前に号泣した質問の「答え」を、自ら口にした。それもさらりと。当時はその「差」に違和感があった。どちらが彼女の本心なのか、と。それは次第に分かった。豊かで、ときに激しい感情の幅。その両端のどちらも素の姿だと。それが「安藤美姫」だった。

 04年11月に初めて取材した当時、世間は16歳の少女をそれほど知らなかった。だが、直後の全日本2連覇で注目が始まり「ミキティ」の愛称も生まれた。翌春の世界選手権前には毎日、私服や制服姿を取り上げるコーナーまで放送された。「変なカメラが家の前にいて…」などと過熱した取材攻勢も受けた。トリノ五輪前、荒川静香を取り上げたいと進言したとき「安藤だけを見ていればいいんだ」と言われた。それがスポーツ紙が感じる世間の風だった。その〝魅力〟はどこにあったのか。彼女と接して感じたのは「危うさ」。その一言に尽きた。

 家族に関する話題を、自然と流れる涙で拒絶しながら、自ら切り出すその言動。人見知りでシャイな「普通の女子高生」と自己分析しながら、露出の高い服で公の場に現れるその奔放さ。今回も、出産を明かしながら、父親をかたくなに伏せる強引さを貫いた。いずれも感情のままの振る舞いで、計算などない。それがあまりに危うすぎるから、目が離せない。平穏を求める彼女の思いとは裏腹に、多くの人を引き寄せた。荒川が五輪で金メダルを取り、浅田真央が出た。それでも今日のフィギュア人気は、安藤によって始まった。

 取材規制が厳しさを増していたある日、偶然にも1対1で話ができた。笑顔を交えて、こんな話を教えてくれた。「室伏広治さんに教わったんです。五輪で優勝する人はたくさんいるけど、心に残る演技や印象に残る選手は少ない。優勝するよりも人の心に残る方がいいんじゃないかって」。その顔は喜々としていた。

 だが、初めての五輪が不本意な内容で終わると、後にこんな告白が聞こえた。「五輪が終わったら『はやりが終わった』みたいな感じで人が離れていった」と。その表現に〝らしさ〟を覚えた。離れて!

 と願っていたメディアが実際に離れると、悔しくなる。18歳の少女の「素直」な心。

 実はそのとき、何度も取材を申し込んでいた。だが、周囲の配慮で本人には届いていなかった。後でそう知った。もし聞こえていたら…。おそらく、やはり断られていただろう。想像の話。でも、それが自分の知る「安藤美姫」だから。

 3年の月日を経て再び担当した際、台湾での4大陸選手権で優勝を見た。久々に聞いた言葉は、同じだった。「記憶に残るスケーターになるのが、小さいころからの夢。結果を残すより、そっちの方が実はすごく難しいと思うんです。だから、1人でも多くの人のメモリーに残るように成長できたらいいなって」。

 素直すぎるゆえに感情の起伏は激しく、ときにはわがままにも映る。それが波紋も呼ぶ。ただ、根底にある思いは変わらなかった。耳目を集めた挑戦は、ついに終わった。だが「安藤美姫」というスケーターの記憶は刻まれた。それだけは、間違いない。【今村健人=04~07、10~11年担当】このニュースの写真