【ユージン(米オレゴン州)=佐藤礼征】男子100メートルでサニブラウン・ハキーム(23=タンブルウィードTC)が、18回目の大会にして日本勢初のファイナリストになった。

準決勝1組を10秒05(追い風0・3メートル)の3着となり、タイム順で拾われて決勝に進出。世界大会では、1932年ロサンゼルス五輪6位の「暁の超特急」吉岡隆徳以来、90年ぶりの偉業となった。決勝は10秒06(向かい風0・1メートル)で7位入賞。世界舞台でのメダル獲得へ、また1つ階段を上った。

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薄暮が近づく会場には、最速候補の8人を待っていた。拍手、指笛、歓声-。用意された第1レーンに向かう。アナウンスとスクリーン表示による選手紹介。年間通じた成績で決まる世界ランキングは、8人中5人が1桁を誇る。サニブラウンは断トツ最下位の44位。日本では開拓者だが、世界では挑戦者になる。

「結構リラックスしていた。横一線なので、やってやろうという気持ちだった」。チャンスはあると信じて、スターティングブロックに脚をかけた。

8人が視線を独占する。スターターによる「セット」の声が響く。観客の息づかいすら消えると、ピストルが鳴った。スタートの反応を示すリアクションタイムは、8人中6番目の0・147秒。出遅れた。「スタートは全然、断片しか、最後の20、30メートルしか覚えていない。横目で2人くらい(前に)出てるなくらいしか覚えていない。無我夢中だった」。持ち前の大きなストライドを伸ばし、懸命に追い込むも届かなかった。

フィニッシュラインを越え、約30メートル先。スクリーンで優勝者を確認して尻もちをついた。2位、3位…。メダルには届かない。7番目に表示されたが「やりきった。悔しかったけど、それでも全力を出し切った」。充実感が体を覆った。

決勝の1時間50分前、午後6時に行われた準決勝は10秒05で1組3着だったが、タイム順で決勝進出を手にした。1912年ストックホルム五輪で、三島弥彦が同種目に日本人として初出場。そこから46人のべ140人の日の丸スプリンターが挑んだ中、2人目となる重たい扉をこじ開けた。「とりあえず『やった』という感情はあったけど…ここから戦わないといけないんだな、という感じだった。こんなところで満足してられないので」。周囲の歓喜はどこ吹く風。ファイナリストはあくまで通過点だった。

本気で世界一を目指し、高校卒業後に渡米した。日本のスプリンターとしては、前例が少ないキャリア。「海外に出て、大学いって、プロになってというのは、自分にとっては正解で、いい証明が出たのかな」。変化を恐れずに、挑戦してきた。

再び目線を上げる。決勝のレース後、快挙を祝う日本陸連が日の丸の国旗を用意したが、受け取らなかった。「まあ、メダルを取っていないので」。表彰台を、次こそは。「近いようで遠い。すぐそこに手が届きそうだけど、そこの何センチか縮めるのに、ものすごい練習が必要。1日1日、1秒1秒を無駄にせずに頑張っていきたい」。サニブラウンの新章が始まった。

 

▽サニブラウン・ハキーム

◆生まれ 1999年(平11)3月6日、福岡県生まれ。父はガーナ人、母明子さんは日本人。17年に東京・城西高を卒業してオランダに拠点を移すと、同年9月からフロリダ大に入学。

◆体格 190センチ、83キロ

◆スポーツ歴 小学校時代はサッカークラブに所属しながら、小3から「アスリートフォレストTC」で陸上を始めた。短距離で高校総体に出場した経験を持つ母明子さんの勧めだった。

◆セカンドキャリア 引退後のセカンドキャリアを見据えて「スポーツマネジメント」などを学んだ。20年7月に休学し、現所属先に移した。3位のブロメル(米国)らと練習をともにする。

◆語学力 幼少期の家族のコミュニケーションは英語。高校までは自宅でCS放送で海外アニメや映画を英語で見るのが習慣だった。高2春から本格的に勉強を始め、苦手なリーディングの克服などにあたった。

◆世陸相性◎ 世界選手権は15年北京大会では史上最年少の16歳で200メートルに出場し、準決勝進出。17年ロンドン大会では、18歳157日と同種目で史上最年少の決勝進出を果たした。

◆好物 牛丼、海鮮丼、タコライス。趣味は「たくさん寝ること」。