忘却のかなたに消えていた記憶を、ふとしたことで思い出すことがある。陸上の桐生祥秀が100メートルで日本人初の9秒台を出したニュースを見たとき、20数年前に聞いた古橋広之進氏の言葉が鮮明によみがえった。

 「今の選手が速くなったといっても、吉岡隆徳さんの10秒3は地下足袋で砂利道を走った記録だよ」

 当時、私は陸上担当だった。日本記録を連発していた朝原宣治について、日本オリンピック委員会(JOC)会長だった古橋氏に感想を求めた。『まだまだ吉岡さんには及ばないよ』という含みを込めた強い口調に、意表を突かれた。吉岡が1935年(昭10)6月に甲子園南運動場で出した10秒3は、世界タイ記録だった。このトラックが砂利道だったか、地下足袋で走ったかは定かではない。だが、戦前の競技環境はそんなものだった。

 165センチ、60キロの吉岡は、両手を広げて低く飛び出すロケットスタートで世界と伍(ご)した。32年ロサンゼルス五輪6位入賞。日本人の同種目の五輪決勝進出はいまだ彼だけだ。桐生は19年ぶりの日本記録更新だが、吉岡の10秒3は29年間も日本記録だった。時代の突出度という点では、古橋氏の見立て通り、まだ誰も吉岡を超えていないのかもしれない。

 100メートルという種目は、最も単純な身体能力の勝負のように見える。しかし、記録の更新には肉体の向上だけではなく、トラックやシューズの改良、運動生理学、医学、栄養学など無数の科学の進歩が凝縮されている。だからタイムだけで、先人と実力の比較をすべきではない。自身も競泳自由形の世界記録保持者だった古橋氏は、それを言いたかったのだと思う。

 84年に74歳で鬼籍に入った吉岡の最晩年のこんなコメントが残っている。「いまの若い連中は、栄養といい、グラウンドといい、スパイクといい、何から何まで恵まれているのに、なぜ世界記録が出せないのだろう。私にとっては、それが不思議でたまらないんです(略)」(『100メートルに命を賭けた男たち』保阪正康著・朝日新聞社)

 果たして吉岡が現代のスポーツ科学のもとで育っていたら、どんな大記録を出したのだろうか。身体能力だけではないとすれば、これからだって吉岡のように世界記録を出す日本人が登場する可能性もある。歴史的な快挙は、記憶のかなたに消えていた先人たちの偉業にも光を当てるとともに、私たちの夢を膨らませてくれる。【首藤正徳】