リーダーたちはなぜ不用意な発言を繰り返すのだろうか。女性差別発言で批判が集中している東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長は、数日前にも「コロナがどういう形であろうと(五輪を)開催する」と発言してネット上に批判の声が殺到していた。政治家時代も失言で支持率を下げた苦い経験がある。

19年には桜田義孝五輪担当大臣が、競泳の池江璃花子の白血病公表に「がっかりした」「盛り上がりが若干下火にならないか心配している」などと感想を述べて物議を醸した。その後「復興以上に大事なのは高橋さん(高橋比奈子衆院議員)だ」と発言。“復興五輪”の旗振り役のあまりに不適切な失言で辞任に追い込まれている。

本人はリップサービスのつもりで口を滑らせたのかもしれないが、自分の置かれた立場に対する理解、当事者への想像力が決定的に欠けている。過去の政治家の失言を調べると、なぜか政権与党の閣僚が多い。上座にすわって気が緩むのか、権力を握って慢心するのか、あるいは耳の痛い忠告を遠ざけてしまうからか。

森会長は謝罪会見で、さらに火に油を注いでしまった。質問にいら立ち、威圧するような態度が、多くの人の神経を逆なでした。あの高圧的な物言いは、国民の大多数が開催に不安や不満を抱く中、1月の会見で「(五輪を)開催しないということのお考えを聞いてみたいくらいだ」と語った自民党の二階俊博幹事長にも通じる。

気が付くと東京五輪の旗を振っているのは政治家や元政治家ばかり。五輪とは政治そのものなのだ。その実体をコロナ禍が浮かび上がらせた。国家事業にまで肥大化した五輪は政府の尽力なくして開催できないが、それにしても安倍政権から政治家が目立ち過ぎる。現政権への賛否が、五輪の是非に直結する危うさを感じる。“強行採決”で五輪は開催できても、国民の理解なしに成功はない。

この状況はスポーツ界のリーダーたちにも責任がある。コロナ禍以降、スポーツ界からの声が明らかに小さくなった。国民が日々の生活にも窮する中、応援してほしいと言いづらいのは理解できるが、五輪不信が深まっている今こそ、批判を恐れず、選手の思いを吸い上げて、五輪の意義を声を大にして訴える時ではないか。政治家の声よりずっと人々の心に響くはずだ。五輪はスポーツを通じた平和の祭典。主役はアスリートなのだから。【首藤正徳】(敬称略)(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「スポーツ百景」)