1990年2月3日、東京・後楽園ホールで約700人の一般客に公開された有料スパーリングは、タイソン終了後、挑戦者ジェームス・ダグラス(米国)がリングに登場。6回のスパーリングを披露した。しかし、王者を11センチ上回る191センチの長身から繰り出されるパンチはヘビー級の迫力に欠け、4回以降は手数も減って、終了を待たずに観客が席を立ち始めた。
ダグラスのボクシングはそれほど退屈だった。WBC3位、WBA4位の上位ランカーとはいえ、戦績は29勝(19KO)4敗1分けと平凡で、KO負けが3つもある。相手を一撃で沈める必殺パンチがあるわけでもない。“バスター”(破壊者)のニックネームが誇大広告のようにも思えた。「米国で2カ月間も猛練習を積んできたのでまだ体が重い。でも調子は上向いている」という本人のコメントも何だか言い訳のように聞こえた。
1月28日に挑戦者が日本で練習を初公開してから、王者圧倒的有利の声がさらに強まった。そんな中、タイソンはダグラスに苦戦する可能性があると予想した人物がいた。試合をプロモートした帝拳ジムの本田明彦会長である。彼はダグラスを挑戦者に抜てきした理由について「タイソンと試合をした場合、リングに一番長く立っていられる選手を念頭に選んだ。ダグラスはジャブとストレートが非常にしっかりしていたから、ひょっとするとタイソンが苦戦するのではないかと考えた」と明かした。
88年3月に東京ドームでタイソンに挑戦したトニー・タッブス(米国)は元世界王者で、敗戦は微妙な判定で王座を失った1敗のみ。しかし、早々に打撃戦に巻き込まれて2回で終わった。その2年前の教訓を生かした人選でもあった。この本田会長の選択が結果的に“世紀の番狂わせ”の引き金になろうとは、この時はまだ夢にも思わなかった。
私はダグラスの過去の試合ビデオを入手した。3年前のIBF世界ヘビー級王座決定戦でトニー・タッカー(米国)に10回KO負けした一戦。タッカーはその直後の統一戦でタイソンに判定負けしたが、“TNT”と呼ばれる強打で、何度か鉄人王者をたじろがせた実力者だった。ダグラスは10回にタッカーの連打でストップされたものの、9回までは鋭い左ジャブを突き刺してペースを掌握し、相手の強打を封じていた。10回もロープは背負ったが、最後まで倒れなかった。結果だけを見て想像していた選手とは違い、うまく、タフだった。
公開スパーリングの2日後の2月5日、私は元世界フライ級王者で引退後30年以上も評論家として活躍している白井義男氏に、ダグラスの練習を一緒に見てもらい解説してもらった。「フットワークを使うボクシングで、強い左ジャブがよく出る。右ストレートもまっすぐに伸びる。これがタイソンにカウンターで決まるようなら、試合は面白くなりますよ」。本田会長と同じことを鋭く指摘した。ペイジのカウンターを浴びてダウンしたタイソンの姿が私の頭をよぎった。
来日直前の1月18日、ダグラスは世界挑戦を楽しみにしていた母ルーラさんを突然の脳出血で失っていた。46歳の若さだった。「本当にショックだった。でもオレはボクシングをやらなければならない」と彼は言葉少なに語った。父ビルさんはミドル級の元世界ランカーだったが世界王座には届かなかった。その父の夢を実現するためにグローブを握った。日本には愛息ラマーくん(11)を連れてきた。挑戦者はタイソンにはない家族の愛を背負っていた。私はそれが何か特別な力になるような気がした。
タイソンも2月5日から練習を再開し、ようやく復調のきざしが見え始めた。一方で決戦が近づくにつれて、その精神面の振れ幅は自分でも制御できないほど日増しに大きくなった。【首藤正徳】