1990年1月23日、東京ドームに隣接する特設ジムで、タイソンは4日ぶりに練習を公開した。元WBA世界ヘビー級王者グレグ・ペイジ(米国)とのスパーリングの3回だった。タイソンが右フックを振るって強引に踏み込んだ瞬間、ペイジの右ショートフックをカウンターでアゴに食らった。無敵王者が右ひざをガクッと折って、そのまま前のめりにダウンしたのだ。すぐに起き上がり、両手を上げてトレーナーに「大丈夫だ」と告げたが、約50人の報道陣が詰め掛けた会場は騒然となった。

WBA・IBF・WBC世界ヘビー級タイトルマッチ合同記者会見で同席したマイク・タイソン(左)とジェームス・ダグラス(右から2人目)
WBA・IBF・WBC世界ヘビー級タイトルマッチ合同記者会見で同席したマイク・タイソン(左)とジェームス・ダグラス(右から2人目)

タイソンは15歳の頃に、アマチュアの試合で20歳の相手にダウンを奪われてTKO負けした経験はあるが、プロになってからダウンは1度もない。「マイ・チン・イズ・コンクリート」(私のあごはコンクリート製だ)と自らのタフネスを自慢していたほどだ。トレーナーのジェイ・ブライトは「バランスを崩したところにタイミングよくパンチが当たっただけ」と平静を装ったが、タイソンは額にしわを寄せたまま、練習後もノーコメントを貫いた。

ペイジは元世界王者の実力者だったが、王座陥落後は低迷していた。前年の7月に週給6000ドル(当時のレートで約87万円)でタイソンの練習パートナーに雇われていた。「タイソンの相手を務めるために猛練習をしているよ」と話していたが、まさか自分のパンチでダウンするとは思ってもいなかったようで「オレも驚いたよ。足がもつれただけじゃないか」と、主人をかばった。

『タイソンダウン』のニュースは、AP通信を通じて全世界に打電された。米国ABCなど世界中から「映像がほしい」と日本の関係者に問い合わせが相次いだ。翌24日、赤っ恥をかかされたタイソンは再びペイジを指名してスパーリングに臨んだ。しかし、またしても右カウンターを何度も顔面に浴びて鼻血を流した。「タイム!」。3回2分15秒、もう一人のトレーナー、アーロン・スノーウェルが声を張り上げて止めた。練習もわずか40分で切り上げた。

タイソンに異変が起きていることは、もう誰の目にも明らかだった。当時、タイソンの日本代理人だったジョー小泉氏は「相手のパンチをよけるのに横柄になっている。全体的に疲労感がある」。元WBC世界スーパーライト級王者の浜田剛史氏は「ダウンを奪われたためか気ばかり前に行っている。疲れも相当たまっている。このままリングに上がったら、思わぬ苦戦をするかもしれない」と、私の取材に答えた。

あの精密機械のような攻防一体のボクシングを取り戻せないまま、強引に打ちに行ったところにカウンターを浴びる悪循環を断ち切れない。「タイソンの動きが非常に悪い。疲れがたまってきている。明日の練習は中止する」。スノーウェルは来日後初めて練習を休むことを告げた。そして、25日の休養日にタイソンが出向いたのは意外な場所だった。【首藤正徳】

絶頂期タイソン悪夢2・11、取材ノートで敗因探る(1)

タイソン最初の異変、ミット打ちでのズレ修正できず(2)

ダグラスとの統一ヘビー級タイトルマッチのため来日したマイク・タイソン。右から2人目はプロモーターのドン・キング氏(1990年1月16日)
ダグラスとの統一ヘビー級タイトルマッチのため来日したマイク・タイソン。右から2人目はプロモーターのドン・キング氏(1990年1月16日)
ダグラスとの統一ヘビー級タイトルマッチのため来日し、会見で「一番」と自らのサインが書かれたボード見せるマイク・タイソン(1990年1月16日)
ダグラスとの統一ヘビー級タイトルマッチのため来日し、会見で「一番」と自らのサインが書かれたボード見せるマイク・タイソン(1990年1月16日)
ダグラスからダウンを奪われKO負けしたマイク・タイソンはダメージからレフェリー(左)に寄りかかる(1990年2月11日)
ダグラスからダウンを奪われKO負けしたマイク・タイソンはダメージからレフェリー(左)に寄りかかる(1990年2月11日)
90年2月、WBA・IBF・WBC世界ヘビー級タイトルマッチの10回、タイソン(右)はダグラスの強烈パンチでダウンを喫しKO負けする
90年2月、WBA・IBF・WBC世界ヘビー級タイトルマッチの10回、タイソン(右)はダグラスの強烈パンチでダウンを喫しKO負けする