1990年1月18日、東京ドームに隣接された特設ジムで、タイソンは来日して2度目の練習に臨んだ。トレーナーのアーロン・スノーウェルが構えるミットに向け、体を前後左右に小刻みに振って、左右のパンチを打ち込む。その攻防一体となった動きは、精密機械のように緻密に組み上げられたもので、タイソンのボクシングの根幹を成している。

ダグラスとの統一ヘビー級タイトルマッチのため来日したマイク・タイソン。右から2人目はプロモーターのドン・キング氏(1990年1月16日)
ダグラスとの統一ヘビー級タイトルマッチのため来日したマイク・タイソン。右から2人目はプロモーターのドン・キング氏(1990年1月16日)

ところが体に染み付いているはずのその動きが、何度やっても思い通りにできない。繰り返しては、考え込む。新任トレーナーにはそのズレを修正する方法が分からない。「なぜもっと頭を振らないんだ」というスノーウェルの忠告に、いら立ったタイソンは突然練習をやめて控室に引き揚げてしまった。周囲の説得で再び姿を見せたものの、強烈なパンチを1発だけサンドバッグに打ち込むと、また控室に帰っていった。

「外して打つ、動いて打つ。打ったら動く」。タイソンはこの基本動作を育ての親カス・ダマトから徹底して体にたたき込まれた。左にスリップして左フック、右にダッキングして右アッパー。その高速かつ精巧にパターン化された動きが、KOマシンのエンジンでもあった。

恩師のダマトはタイソンが1回KOでプロ11連勝を飾った直後に世を去ったが、その教えを引き継いだ兄弟子のケビン・ルーニーがトレーナーとしてずっと目を光らせてきた。ルーニーの声に、タイソンの体は瞬時に反応した。しかし、88年、35戦目を戦い終えた後「過大な報酬を受け取っている」としてルーニーを解雇していた。

翌19日の練習にタイソンは米国から持参した「振り子式パンチングボール」を持ち込んだ。小さな砂袋を約50センチのロープでつるして前後に揺らしながら、上体を素早く左右に振ってよける。基本動作を身に付けるため、アマチュア時代から取り入れていた。その練習にタイソンはまるで新人ボクサーのように没頭した。失った感覚を必死に呼び起こそうとしているように見えた。それでも納得できないのか、何度もスノーウェルと話し込む。「ルーニーだったら修正できたかもしれないのに」。練習を見ながら私は思った。

この日の練習後、いつも強気なタイソンが「試合を前にナーバスになってきた」と珍しく本音をもらした。その後、陣営から20日から3日間は練習をシャットアウトすると発表された。当初、21日の日曜日は完全休日の予定だったが、タイソンはジムに姿を見せた。「どうしても練習する必要があったから休日でも練習をした。実はマイクが希望したんだ」。もう一人のトレーナー、ジェイ・ブライトは答えた。何かがおかしい。歯車が微妙に狂い始めていた。そして非公開が明けた23日の練習で衝撃的な“事件”が起きた。【首藤正徳】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「スポーツ百景」)

絶頂期タイソン悪夢2・11、取材ノートで敗因探る(1)

ダグラスからダウンを奪われKO負けしたマイク・タイソンはダメージからレフェリー(左)に寄りかかる(1990年2月11日)
ダグラスからダウンを奪われKO負けしたマイク・タイソンはダメージからレフェリー(左)に寄りかかる(1990年2月11日)
90年2月、WBA・IBF・WBC世界ヘビー級タイトルマッチの10回、タイソン(右)はダグラスの強烈パンチでダウンを喫しKO負けする
90年2月、WBA・IBF・WBC世界ヘビー級タイトルマッチの10回、タイソン(右)はダグラスの強烈パンチでダウンを喫しKO負けする
WBA・IBF・WBC世界ヘビー級タイトルマッチ合同記者会見で同席したマイク・タイソン(左)とジェームス・ダグラス(右から2人目)
WBA・IBF・WBC世界ヘビー級タイトルマッチ合同記者会見で同席したマイク・タイソン(左)とジェームス・ダグラス(右から2人目)
ダグラスとの統一ヘビー級タイトルマッチのため来日し、会見で「一番」と自らのサインが書かれたボード見せるマイク・タイソン(1990年1月16日)
ダグラスとの統一ヘビー級タイトルマッチのため来日し、会見で「一番」と自らのサインが書かれたボード見せるマイク・タイソン(1990年1月16日)