「脳を鍛えるには運動しかない!」という本を書いた、米ハーバード大医学大学院のジョン・レイティ博士と対談した。人間は本来動物であるから、人類史で長らく置かれていた状況を再現する方が、人は健康になるし、可能性も広がるということを提唱している人物だ。

 一例だが、米イリノイ州の子供たちが、授業開始の前に「0時限授業」と称して運動を行ったところ、テストのスコアが上がった。朝早起きしたことによる影響の可能性もあるが、著書では運動の効果ではないかと結論づけている。

 人類史のほとんどの時間は狩猟で生活をしていたわけだから、運動時に思考が働くということが重要だったのだろうと思う。狩猟を行っている時は、1日に10マイル(約16キロ)以上歩行か走るという行為をしていたそうだ。

 自分が見たもの、感じたものをあるがままに受け入れる「マインドフルネス」という概念がある。これについて少し話を聞いたが、通訳を入れたこともあって、あまり理解が進まなかった。だが著書を読んだところ詳細にわたって書かれていて、とても納得した。シンプルにいえば「マインドフルネス」とは、自分と外界を分けるという感覚が薄れる世界なのだろうと思う。今ここの世界である。

 近代では観察し、名前をつけ特定し、構造化し、こぼしてしまうものがありながらもわかりやすいモデルに落とし込んで理解するということが多いように思う。例えば世界は貧困層と富裕層に分断されつつあり、それがトランプ現象につながった、などだ。人間が何かを理解する上で重要なことだが、一方で自らが観察者になることがどうしても必要になる。眺める私は、眺められる対象と自分の切り離しが必要になってくる。

 ドイツの社会心理学者エーリッヒ・フロム(1900~1980年)は、著書の中で「最初は隔たりのなかった自分とそれ以外が分かれてしまい、私たちは孤独を感じるようになった」と話している。

 日本に「Nature」という言葉が入ってきた時に、それらは「しぜん」と訳されたと書かれた本を読んだことがあるが、以前には「自然」を「じねん」と呼んだ頃があったそうだ。「しぜん」と「じねん」の違いは何かというと、「しぜん」は私と「しぜん」が分かれているという解釈で考えられていて、「じねん」には私も含まれているという解釈になる。シンプルに言えば自分が入っているかどうか。つまり「私がしぜんを眺める」は成り立つが、「私がじねんを眺める」は、私自身が「じねん」の中に入っているので成り立たない。野生の鹿をみた時、私たちは「しぜん」と言うが、「じねん」ではその鹿と同じように自分のことを捉えている。そういった世界観を私たちは持っていたのではないかというわけだ。

 現代社会において何かを客観的に観察し、特定し、構造化し、理解することは多いが、人類史の多くの時間では、私という感覚は薄く、外界とも切り離されていなかったのではないかと思う。そうは言っても仕事のほとんどはこのような行為を必要とされるから、私たちの日常のほとんどは観察者として過ごしていると思う。

 人々が何かに夢中になる時、心を奪われる時に、まさにそれはその瞬間に客観的に見る私の不在を意味するのではないだろうか。釣りをしたり、スポーツをしたり、ゲームに興じたり、またはアートを見たり。我を忘れる夢中の行為が、余暇では好まれているというのは示唆的だと感じている。(為末大)