ドーピングは罪で、資格停止は罰だ。罰がある以上、それを終えた選手が夢を持つことは自由なはずだ。

福井国体競泳第2日の16日。最終種目は男子成年200メートルリレー決勝だった。千葉は1分30秒15の同タイムで東京と優勝を分け合った。千葉の第3泳者を務めた川崎駿(22=駿台クラブ)は、仲間と表彰台に上がった。「くじけずに競技を続けて結果を残せた。いいこと、とは言えないんですが、今後もし同じ状況になった選手がいたら『こういう選手がいた』と少しでも役立てたらと思います」。

川崎は、競泳界国内初のドーピング違反者だ。昨年9月の日本学生選手権で、日本アンチ・ドーピング(JADA)の検査を受けて陽性となった。摂取していた海外製サプリメントに、成分表に記載されていない禁止物質が混入していた(汚染製品)。陽性反応の連絡を受けて「最初に電話が来た時は、正直、何を言われているか、わからなくて。いたずら電話なのか、と思いました」と振り返る。

同選手権から中5日だった1年前の愛媛国体は検査結果が出る前だったため出場していた。この日と同じ200メートルリレーで2位も記録はのちに取り消された。「昨年、千葉県チームにすごく迷惑をかけてしまった。出た後に記録がなくなってしまって。今年は何としても貢献したかった」と口にした。

ドーピング違反は原則4年間の資格停止。だが意図的でなかったこと、汚染製品が原因だったことを証明し、期間は7カ月に短縮された。ただ違反は違反だ。

高校総体50メートル自由形で優勝経験がある川崎は当時、大学4年生。就職の内定も取り消しになった。「もう水泳できないかな。家に引きこもっていた」。悩んだ末に大学OBによる駿台クラブで泳ぎ始めた。「応援してくれる方がいて、もう1度頑張ってみようと思いました」と、2度目の4年生を過ごすことにした。

資格停止が明けた今年5月。ジャパンオープンでレースに復帰した。50メートル自由形予選は全体の44位で敗退。「最初なのですごく周囲の視線を感じました…」と素直な気持ちを明かした。

今年7月、コーチの紹介で就職面接を受けた。地元の千葉県に水泳部の本拠地を置く、JFE京浜だった。「大きな問題がなければ、採用する方向」という話だったが、不注意だったとはいえ、ドーピング違反はまぎれもない事実だ。川崎自身も「僕に甘いところがあった」と認めている。本当に「大きな問題」はないのだろうか。心は揺れていたが、面接の場で真っすぐ言葉で気持ちを伝えた。

「仕事を熱心にすることは前提として、その上で自分の時間をうまく使って、結果を残したいです」

同社社長はこう言った。

「そういうことは気にしないから、また水泳を頑張って下さい」

8月、就職内定の知らせが届いた。川崎は「うれしかったですね。正直、競技を続けられないと思っていたので」としみじみ言う。

川崎はこの日、高3のインターハイ以来となる大舞台での優勝を手にした。「ガムシャラに、無心に、何としても貢献したいと思って泳いだ。千葉はこれまで2位が続いて、どうしても勝てなくて…。とてもうれしい」と声を弾ませた。復帰当初の5月は「まずは自分の泳ぎに戻すこと」を目標に掲げていた。それが今、変わりつつある。今後について「僕が辞めなかったのは、20年東京五輪にどうしても出たいな、という気持ちがあったからです。その後は考えてないですが、それまでは何としても」。

ドーピング違反した選手が東京五輪を夢見てはいけないだろうか。7カ月の資格停止という罰を終えた以上、問題はないはずだ。だが世間にはそう思わない人がいることも事実だ。実際、日本でドーピング違反した選手が、再び一線級で活躍するケースはほぼない。ドーピング違反=キャリアの終わりという暗黙の了解に近いものは確かにある。

日本の美点は、ドーピングに対してクリーンであることだ。ただ、その美点が違反から復帰する選手の道を阻むように作用するのであれば、悲しい。「僕自身、この優勝は胸を張って勝った、といえる優勝でした」。22歳の明るい声から後ろ暗さは一切、感じられなかった。誰も歩んだことがない道のりかもしれない。それでも川崎の歩みを見届けたい。【益田一弘】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)

◆益田一弘(ますだ・かずひろ)広島市出身、00年入社の42歳。五輪は14年ソチでフィギュアスケート、16年リオで陸上、18年平昌でカーリングなどを取材。16年11月から水泳担当。

200メートルリレーで優勝した千葉の川崎駿(撮影・益田一弘)
200メートルリレーで優勝した千葉の川崎駿(撮影・益田一弘)