陸上女子走り幅跳びの秦澄美鈴(27=シバタ工業)が杭州アジア大会(中国)に臨み、6メートル48(追い風0・4メートル)で4位となった。銅メダルまでは2センチ。あと1歩で表彰台入りを逃す結果となったが、今季は飛躍を遂げたシーズンとなった。
6月の日本選手権で3連覇を達成。さらに7月のアジア選手権では6メートル97のビッグジャンプをみせ、従来の日本記録を17年ぶりに更新した。24年パリオリンピック(五輪)の参加標準記録を突破した中、9月には世界最高峰シリーズのダイヤモンドリーグ(DL)厦門(アモイ)大会に参戦した。
その秦は兵庫県明石市のゴムメーカーである「シバタ工業株式会社」に所属している。19年4月に同社初のアスリート社員として入社し、今季は5年目。着実に記録を伸ばし、初の五輪舞台へと歩みを進める中、秦への応援は緩やかに変わっていった。
同社の広報担当を務める宮越絢子さんへの取材を通じ、その変化を描くとともに、陸上競技における応援の意味に迫った。【取材・構成=藤塚大輔】
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オレンジのフラッグが揺らめく。その光景こそが、変化を象徴していた。
2023年6月4日。大阪・ヤンマースタジアム長居。
夕日が差すスタジアムのバックストレート。女子走り幅跳びを6メートル63で制した秦は、スタンドへ向けて何度も手を振った。晴れやかな表情で、大きく口を開いた。
「ありがとうございました」
その視線の先で、赤色のポロシャツをまとった一団がフラッグをゆらゆらと振っていた。
スタンドの一角を占めていたのはシバタ工業の社員。30人近くの“応援団”が見守っていた。
広報担当の宮越さんは苦笑いを浮かべる。
「今大会は大所帯になったんですが、実ははじめの頃は2、3人とかの時もありました」
入社当初から、秦の存在が浸透していたわけではなかった。
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秦はもともと短距離や走り高跳びの選手だったが、武庫川女子大(兵庫)へ入学後に走り幅跳びを始めた。大学4年時には日本選手権で2位に入り、同年の日本学生対校選手権(日本インカレ)で日本一にも輝いた。
卒業後も競技を続けるため、日本オリンピック委員会(JOC)による就職支援ナビゲーション「アスナビ」に相談。シバタ工業の柴田充喜代表取締役社長も「スポーツは社会を明るく元気にする」とアスリート社員採用を希望しており、両者はつながった。同じ関西地区との縁も重なり、採用へと至った。
ただ、当初の社内の反応は「そんな選手がいるんだ…くらいだった」という。
「恥ずかしながら、あまり興味関心を持っていなかったのも事実ではあったと思います」
初のアスリート社員。「どう応援すればよいのか分からない」という受け止めも少なくなかった。
そんな中、秦は積極的に企業の広告塔の役割を担った。顧客とのタッチポイントを生むため、レインブーツのモデルを務めたこともあった。社内広報では自己紹介も兼ね、より存在を知ってもらうような工夫も重ねた。
宮越さんは「秦からの働きかけも大きかった」と証言する。その上でこう強調する。
「何よりも一番は、本人の実力がメキメキと伸びていって、『え、すごい』と見る目が変わっていったからじゃないでしょうか」
入社1年目の2019年。6メートル43で悲願の日本選手権初Vを達成した。翌2020年にはセイコーゴールデングランプリ(GGP)でも優勝。2021年には兵庫リレーカーニバルで6メートル65の大ジャンプもみせた。
跳躍力に安定感が備わるようになり、国内大会のタイトルを次々と獲得していった。
比例して、社内でもその活躍ぶりが話題にあがるようになった。
「『この子、また優勝している』『すごいね』といった感じになって。ちょっと応援に行ってみようかなという声も聞かれるようになっていきました」
そうして応援団は大きくなっていった。
「1回応援に来てもらった社員が『また行きたいです』とリピーターになっていきましたね」
秦の跳躍から社内にもパワーが伝わり、活気が生まれ始めた。熱の高まりの中で、リピーターも増えた。自然と応援にも力が入るようになった。
昨年からは赤色のポロシャツや応援グッズもそろえるようにした。今年は秦の「フラッグみたいなものがあるとかわいいよね」という声も下地とし、秦の似顔絵入りのフラッグも取り入れ始めた。
そうして迎えた今夏の日本選手権。30人近い応援団がジャンプを見届けた。
大会関係者からは「秦選手の応援、すごく多かったよね」と声をかけられるほどだった。
「そういう流れが生まれていったのは、秦自身もとてもうれしかったようです」
普段の何げないやりとりの中から、応援への感謝の思いはひしひしと伝わってきた。
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サポーターの輪が広まっていく中、秦も記録を伸ばしていった。
7月のアジア選手権では6メートル97の日本新記録を樹立。昨夏の世界選手権(米オレゴン州)で銅メダル相当のビッグジャンプをみせた。
その後にシバタ工業で開かれた壮行会では「一緒に写真を撮ってもらってもいいですか?」と社員から声をかけられる姿があった。
これまで以上の反響が、確かに生まれ始めていた。
「今まではそういう場面はあまり見なかったんですが、『一緒にお願いします』と言われていて。中には『体格良くなったよね』とか、『助走、ちょっと変えたよね』という声もあったりして、関心は高まっているなと感じます」
陸上競技はリレーなどを除けば、大半が個人で争われる。選手間での駆け引きはあるが、1秒でも速く、1センチでも遠くを競うスポーツであるため、「自分自身との闘い」という性質が強い。スタジアムでは同時に複数の種目が進行するとあって、会場の一体感が生まれにくい点も否めない。
ただ、だからこそ、思いを込めてエールを送る。宮越さんはこう口にしていた。
「個人競技ではあるんですけど、スタンドをぱっと見てくれた時に、チームで戦っているんだなというのを感じてほしいという願いも込めています」
スタンドの一角で揺れたオレンジのフラッグ。エールに応えようと跳ぶ秦。
“チームメート”が1人、また1人と加わるにつれて、その輪はきっと固く、強くなる。
(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)