1914年に創部された早稲田大学競走部。100年を超える名門の歴史の中でもまれな、1年生から長距離チームのマネジャーを務めた青年がいた。白石幸誠(23)。4年生ではマネジャーを統括する主務となった。箱根駅伝総合優勝を目指す選手を支え、この春に卒業を迎えた。花田勝彦監督が指揮を執る中で、黒衣役に徹し続けた4年間。大学生活の終盤には、選手と同じように注目を集める存在となっていった。入学直後の1年生から密着してきた記者が見つめた、ある学生の記録。3回連載の中編は花田勝彦監督との出会いを描きます。(敬称略)
◇ ◇ ◇
散々な光景が広がっていた。
2022年3月下旬、白石は初めて早稲田大学所沢キャンパスで長距離部員の練習を見た。
「自分の高校の方がちゃんとやっていたな…」
正月の箱根駅伝で総合13位に沈み、シード落ちしていたチームは、ボロボロだった。
ケガを抱えた選手が多く、まともにトラックを走れているのは2、3人。
補強トレーニングを行う姿も怠慢に映った。
伝統校、名門校。抱いてきたイメージは一蹴された。
前年末に合格通知をもらうと、人づてにマネジャーとしての入部希望を伝え、必要だと言われた車の免許も取った。
まずは短距離のマネジャーと一緒に、競走部の一員として入部することになったが、もちろん長距離こそが望みだった。
選手生活に区切りをつけ、意を決して飛び込んだ新たなフィールドの現実だった。
不安しか募らないような風景だった。
そんな初見から2週間後、先輩主務から、長距離を中心に動いてほしいと打診された。
もちろん、快諾だった。まずは希望していた道がつながった
そして、大きく人生を変えていく出会いがやってきた。
「4月17日です。忘れません」
大雨の日だった。
所沢を訪れた人物がいた。
花田勝彦。かつて「早大三羽がらす」と呼ばれ、箱根駅伝総合優勝、そして何より「早稲田から世界」への体現者として、五輪に2度出場した偉大な先輩。
2カ月後、長距離チームの監督に就任することになるOBは、恩師だった瀬古利彦の依頼もあり、2人で後輩たちの練習を見学にきた。
「その日、マネジャーが僕しかいなかったんです」
先輩たちは授業などで出払っていた。
予期せぬ来訪者はテレビでしか見たことがない人だった。
ただ、トラックを走れていたのは一人だけ。そのタイムを計測しながら、一緒に傘をさして、現実を見つめた。
他メンバーはケガ明けが多く、トレーニング室にいた。
「僕、まだ行き方が分からなかったので、迷いながらお連れしましたね」
初対面、年齢差はあったが、最初にあったその日から、対話の時間は長かった。
帰り際、連絡先を交換した。
それからは毎日、花田に練習内容を送信した。
花田からも部員の様子を聞くメッセージが届いた。
予感はあった。
「この人が次の監督になるんだろうな」
それから2週間と経たず。
2022年4月29日。
お昼時、所沢キャンパスの最寄り駅の小手指駅のガストで、花田と向き合っていた。
その日の朝、スポーツ紙で「早稲田大学競走部駅伝監督に花田氏就任」と報道されていた。
「僕は唐揚げ定食を食べてました。花田さん、食べるのが早いので、待たせたらいけないと思って」
熱くて、口の中をやけどした。その痛みもはっきり覚えている。
話し合っていたのは、運営、練習方法の事だった。
「そもそも、まずは準備運動から変えよう」
そのために意見を仰ぐトレーナーの先生を駅まで迎えにきて、先に2人で昼食を取っていた。
花田のスマートフォンはその日、壊れていた。
「たぶん、いっぱい連絡がきてるんだろうな」
そんな風に気をもんでいると、唐揚げよりも熱い言葉が待っていた。
「俺が監督をやることになる。これから4年間、お前たちの代が1年生から初めて見る代になるし、1年生でこうやってお前がマネジャーでいてくれて、やっぱり4年間で変えたいっていう思いがとてもある。力を貸してほしい」
予感は現実になった。
そして、答えはもちろん。
「僕ができることは頑張ります!」
監督のため、チームのため、身を粉にし続ける覚悟が決まった日だった。
熱い熱い日々の幕開けだった。
6月、花田の監督就任が正式に決まった。
それまでは無我夢中で、頼まれたことを必死にやって部員を支えていたが、これを機に仕事内容が変わっていった。
「まずは練習内容の共有をしようということになって。スプレッドシートをつけることになったんですが、その立ち上げから始まりましたね」
一からフォーマットを作り、部員のアカウントを集め、取り扱い方法を説明し、共有する。
花田から一任され、勉強しながら、骨格を作っていった。
「こういうのがマネジャーの仕事なんだな」
思い返せば、高校の恩師が言っていた。
「大学の主務は監督の下にいる。主務の下に選手がいる」
期せずして、1年生の19歳は、そんなポジションを担うことになっていた。
夏になれば、合宿の調整にも奔走した。
部屋割り、アレルギー対策、そして道案内まで。
この年から新潟・妙高高原の合宿は、新コースを取り入れた。
「花田さんと先に2人で車で下見して。選手は道が分からないで、自分が自転車で先導することになって」
30キロの山道コース。起伏も激しい。
「本当に行ける?」
心配そうにする監督に、気丈に返した。
「僕、30キロ、自転車通学してたので。しかも後ろに学生バックとかも積んでいたので。余裕です」
高校時代、祖父母宅から学校まで、それほど遠かった。
まさか、そんな経験も、マネジャーの仕事に生きるとは。
花田改革が進めば進むほど、仕事の範囲が増えていく。
「授業も受けないといけないし。1年の時は、本当にもう一生懸命、無我夢中でした」
初めて観戦者でなくなった翌2023年1月の箱根駅伝は、総合6位。
学生駅伝の1年のサイクルが終わってみると、先を考えられるようになっていった。
「言われてないことでも、できるなって思い始めました」
宿の早期手配や器具の調達。
同時に、学年が上がれば後輩ができる。
入学希望者に会うこともあった。そして、その両親にもつながっていった。
「親からすると、ほそぼそしたことの連絡、確認って、監督にはしにくいですよね。選手にとっても、その親にとっても、監督に近いながらも相談できる存在なんだなって」
入部後も、息子に変わって頑張っている近況を伝える事も増えていった。
だんだんと、早稲田の白石幸誠としてのマネジャー像が固まっていった。
【阿部健吾】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)






