4回転時代の今ほど、ジャンプに重きは置かれていなかった。84年サラエボ五輪。カタリナ・ビットは2種類の3回転ジャンプで金メダルを獲得した。ギリギリで出場権を逃した14歳、中学2年だった伊藤みどり(48)は同五輪直後の世界選手権で5種類の3回転ジャンプを成功させて7位入賞。そんな時代だったが、山田満知子コーチ(74)と、得意のジャンプを重視した強化を続けた。

中学3年になった同年4月。山田コーチから「トリプルアクセル(3回転半)を跳んでみない」と声を掛けられる。「やります」と即答した。「仕事でも同じことの繰り返しではつまらないですよね? わたしも同じ練習だけでは物足りなくなっていた」。ただ楽しいだけでなく、自我が芽生え、反抗期の年頃。新たな技の挑戦は、スケートへの情熱を持続する最良の方法だった。


86年11月、NHK国際大会の女子SPで演技をする伊藤みどり
86年11月、NHK国際大会の女子SPで演技をする伊藤みどり

当時の3回転半は男子のトップだけの技。女子が跳ぶとの発想はなかったが、天才は簡単に常識を打ち破る。4月から練習を始めると、6月には練習で成功。翌85年3月の世界選手権(東京)で女子初の成功者になるべく、猛練習に取り組んだが、直前の2月に右足靱帯(じんたい)を損傷する。17年のNHK杯で羽生も痛めたように、着氷では体重の5倍の負荷がかかるともいわれる。結局、地元の世界選手権は無念の欠場となった。

88年カルガリー五輪は5種類の3回転ジャンプだけで勝負することを決めた。前記の通り、当時は3回転ジャンプが2種類だけのビットが世界女王。「確実に5種類(の3回転)を成功させて勝つ」と、高校生になった伊藤はケガのリスクと、戦略面を考慮し、3回転半の一時封印を決めた。3回転半がなくとも、国内では無敵で、85、86、87年度の全日本選手権は優勝。カルガリー五輪も絶好調で迎えた。

誰よりも高くダイナミックなジャンプを武器にする伊藤のパワフルな演技は、本場のファンの心をつかんだ。フリーでは5種類の3回転ジャンプを計7回成功。約2万人の大観衆からスタンディングオベーションが起きた。「楽しかった。ベストの演技ができた」。5位入賞だったが、観客を最も盛り上げたのは、18歳の日本人だった。

フィギュアの歴史は変わる。伊藤のカルガリーでの躍進で、海外のトップ勢が軒並み、5種類の3回転ジャンプに取り組む。「女の子も5種類できると、世界が知った。すると、みんながやってきた」。翌シーズンになると、ライバルになるクリスティー・ヤマグチ(米国)らは完璧に5種類の3回転をマスターしてきた。ジャンプの重要性が高まる転換期。伊藤が、その流れを加速させたことは間違いなかった。

カルガリー五輪後、全米を回るアイスショーのメンバーに選ばれ、同五輪銀メダルで、現在羽生のコーチを務めるブライアン・オーサー(カナダ)らと共演。自らが封印していた3回転半を鮮やかに決める男子のトップ選手たちにくぎ付けになった。心はうずく。「バンバン決めていた。わたしも跳びたい。名古屋に帰ったら練習しよう」。女子では成功者のいなかった3回転半との戦いが再び始まる。(敬称略=つづく)(2017年11月24日紙面から。年齢は掲載当時)