政府の緊急事態宣言が延長され、スポーツ界も「自粛」状態が続いている。

日刊スポーツの記者が自らの目で見て、耳で聞き、肌で感じた瞬間を紹介する「マイメモリーズ」。サッカー編に続いてオリンピック(五輪)、相撲、バトルなどを担当した記者がお届けする。

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92年バルセロナ五輪で、世界中の注目を最も浴びたのが男子バスケットボールの米国代表「ドリームチーム」だった。88年ソウル五輪で金メダルを逃した米国が、威信をかけてNBAのスター軍団を送り込んだ。

主役は当時、全盛期を迎えていた「神様」マイケル・ジョーダンと、前年にエイズ感染を理由に現役引退し、五輪限定で復帰したマジック・ジョンソン。マジックは体調を考慮しながら、エイズ啓発のため出場を決断した。2人を中心にNBAのトップスターが集合。映画「荒野の7人」や「オーシャンズ11」のようなオールスターの集団は、ドリームチームと呼ばれ社会現象になった。

事前のモナコ・モンテカルロでの豪勢な合宿。バルセロナ到着の際に使用された郊外の飛行場の場所はトップシークレット。同僚の社会部の記者となんとか探し出して駆けつけた。飛行場は武装した国家警察が警備を固め、パトカー5台の先導で、市内の高級ホテルへ直行。そのホテルも、建設費をNBAが出し、調度品もNBAがそろえたという話だった。

選手村でマジック、ジョーダンが出席した会見を取材した。バスケット部だった高校時代からあこがれの存在と夢のような出会いだった。マジックとは1959年8月14日の誕生日も同じで思い入れは格別だった。会見場に向かうマジックと横並びになり、思わずその体に触れた。会見場では英語も話せなかったが前から2番目の席に座って、必死で話を聞いた。ジョーダンと目が合ったときは、思わず目をそらしてしまうほど威圧感を感じた。

ドリームチームは予選からすべて100点ゲームで、すべての試合で30点差以上をつけて金メダルを獲得した。対戦相手は、試合終了の笛が待ち切れないように、ドリームチームのもとに駆け寄りサインや写真撮影をねだっていた。マジックは、決勝のクロアチア戦の前半、唯一逆転を許した場面に登場し、華麗なプレーで再逆転の流れをつくった。優勝が決まる直前、ベンチで真っ先に立ち上がりコートの仲間を鼓舞する姿が印象的だった。

バスケットの認知度は当時日本ではあまり高くなかった。決勝の試合は、世界中のメディアの抽選になり、事前に国内の予備抽選で手を上げたのは日刊スポーツと共同通信だけだった。ドリームチームの活躍と注目度が五輪へのプロ参加の本格的な流れをつくった。ドリームチームは、その後の五輪でも結成されたが、現在に至るまで92年の陣容、実力を上回るチームはない。【桝田朗】