日刊スポーツの記者が自らの目で見て、耳で聞き、肌で感じた瞬間を紹介する「マイメモリーズ」。サッカー編に続いてオリンピック(五輪)、相撲、バトルなどを担当した記者がお届けする。

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スポーツの取材現場に足を踏み入れたのが34年前。修羅場は何度か、くぐり抜けてきたつもりだ。ただ、頭も体も精根尽き果て「こんな夢のような取材とは二度と出会えない」と感じたのはあの時だけだ。「もう明日が来なくてもいい」。そう燃え尽きて眠りに就いたのを覚えている。「2・17」という生涯忘れられない1日が心に刻まれる。

98年2月17日。日の丸飛行隊によって日本の五輪史上、夏冬通算100個目の金メダルがもたらされた。長野五輪開幕から11日目。白馬村での、いや前年秋から北欧や国内での雪上取材で体はボロボロ。閉会式翌日から再びジャンプW杯取材で欧州へ飛び、あの冬季シーズン半年で自宅滞在は1カ月もなかった。

そんな過酷な状況でも、取材現場ではいつも「原田スマイル」が生気を与えてくれた。ノーマルヒルでは1本目トップ浮上も2本目失速のメダル圏外。“何かしでかす男”はラージヒルで2本目、計測不可能の大ジャンプ。着地から9分後に135メートルの飛距離が掲示され、金メダルの船木と2人、銅メダルの表彰台に立つ。NHK工藤アナウンサーの「立て、立て、立て、立ってくれ~、立った~!」という絶叫調の名ゼリフも花を添えた。

そして迎えた2月17日の団体戦。その4年前、団体戦の金メダル目前ながらアンカーで失速したリレハンメルの悪夢再現か-。最悪の猛吹雪の1本目、80メートルにも届かぬジャンプに原田雅彦は身を縮ませた。金メダル大本命の日本は、1本目を終えまさかの4位。だが“何かしでかす”男の真骨頂はこの後だった。

同じ2本目に、切り込み隊長の岡部がマークしたバッケンレコードに並ぶ137メートルを飛び5万大観衆を熱狂の渦に巻き込む。最後の船木が、大逆転劇を締めくくった。アンカーに思いを託して発した「フナキ~」という泥酔状態に陥ったような、かすれ声。何とも情けない、そんな不格好でも人間味あふれる男だった。

「つらかったよ…、もうね…。また迷惑かけんのかなって、逃げたくなったよ…。また4年前と同じ状況になるのかなって…」。競技終了後、取材は延々と2時間以上も続き、頭はもう原田劇場でフラフラ。1本目を終えた後の心境コメントを耳にたたき込みながら1時間、雪道を歩きながら宿舎へ戻り出稿作業。朝の宿舎出発から12時間近くがたっていた午後6時から、一心不乱に鬼の形相でワープロのキーボードをたたきつけた。

2月18日付の日刊スポーツは1面から6枚、後ろからめくっても4枚の計10枚をジャンプ記事に割いた。締め切りまでの約1時間半で作り上げ、山のようにファクスで送られるゲラを確認しさらに差し替え作業。宿舎の心遣いで「今日は特別にお祝いで」と調理してくれた、氷のように固くなったステーキを腹に収めた時は日付が替わっていた。

歴史を刻んだ4人のジャンパー、荒天の中で立ち続けた5万大観衆。猛吹雪の中、2本目競技続行の命運を託された25人のテストジャンパーの中には、リレハンメル戦士の葛西、西方らもいた。小さいな白馬村の空間に、日本国中が1つに集約された、実に濃密な1日だった。【渡辺佳彦】