ラグビー7人制男子日本代表の藤田慶和(パナソニック)が8日、27歳の誕生日を迎えた。3月には東京五輪の延期が決定。今夏は新型コロナウイルスの影響により、葛藤する高校3年生を励ます活動を行った。1年後に控えた大舞台。悲願のメダル獲得へ、春からの心境の変化を明かした。【取材・構成=松本航】

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8月。全国高校大会優勝6度の東福岡に、ピンクのシューズが届いた。3年生全員へ向けて、約40足を準備したのが卒業生の藤田だった。コロナ禍で直接の訪問は控えた。写真や動画を通じて後輩の表情を確認すると、優しくほほえんだ。

「『また頑張る』という、1つの材料にしてくれたら、本当にうれしいです。もちろん『全国の高校3年生にできれば…』と考えましたが、なかなかそうもいかない。サポートしてくれているアディダスの協力も得て、身近な母校に届けました」

3月下旬。東京五輪の延期が発表された。早朝に一報を知り、その日は埼玉・熊谷で行われていた代表合宿の練習試合に出場した。

「自分でも情けないぐらい、身が入っていなかった。そこから2日間、考えて、悩んで、切り替えました。五輪が来年あるか、ないかは、正直分からない。その辺りは高校生の気持ちと一緒だと思います。もし目標の舞台がなくなったとしても『悔いのない準備は必ず役に立つ』と伝えたい」

東福岡では1年から主力として、花園3連覇。2年時は日本代表FB松島幸太朗(クレルモン)らを擁した桐蔭学園(神奈川)と両校優勝だったが、花園で負けることなく卒業した。輝かしい功績ばかりが目立つが、藤田はその「過程」から成長を実感したという。

「高校3年間は『人として、どんな人間になるのか』を教えてもらいました」

多くのチームで行われる合宿中の散歩。当時の谷崎重幸監督(62)からは「○時に、ここへ集合な」と送り出された。文字通り「散って歩く」。再集合すると、道中の「気付き」を互いに発表する時間があった。

「気温、天気、風…。感性を磨く時間でした。これがラグビーの試合になれば、太陽の位置を把握し、風を読み、どこへキックをするのかにつながりました」

圧倒的な強さの裏に、緻密な準備があった。のちに社会人となって実感した。

「そうやって磨いた『気付き』が、社会に出て『気配り』につながりました」

入学当初は体重60キロ程度。コンタクト練習で最も強いグループに招かれ、体をぶつけては吹っ飛ばされた。毎日の練習後、仲間と1対1のランニング勝負を何本も繰り返した。順風満帆に見える3年間だが、日々を全力で過ごしていた。

「全体練習が終われば帰ってもいい。残って練習しても、レギュラーになれるかは分からない。でも、みんな絶対にグリーンのジャージーを着たかった。それが当たり前の環境でした」

16年リオデジャネイロ五輪は、バックアップメンバーとして現地にいた。4位入賞を果たした仲間の姿を、客席から見守っていた。

「僕はリベンジを果たしたい。そして支えてくれた、たくさんの人に恩返しをしたい。去年の(15人制)W杯のように、日本の皆さんを感動させたいんです。子どもたちに夢を与えられるように、必ずメダルをつかみたいと思っています」

今、複雑な心境の高校生に、伝えたい言葉がある。

「共に頑張りましょう」

27歳になった藤田も春に抱いた悩み、葛藤に背を向けた。後悔のない準備は、裏切らないと知っている。

 

◆藤田慶和(ふじた・よしかず)1993年(平5)9月8日、京都市生まれ。15人制のポジションはWTB、FB。東福岡高では花園3連覇。3年時に7人制日本代表に選ばれた。早大1年時の12年5月、アジア5カ国対抗戦のUAE戦で15人制の日本代表デビュー。18歳7カ月の最年少キャップ記録を樹立。15年W杯イングランド大会代表。7人制では4位に入った16年リオデジャネイロ五輪にバックアップメンバーとして同行したが、出場はなし。184センチ、90キロ。