世界での実績を積み上げる一方で、監督の大松博文の不安は大きくなるばかりだった。挑戦者から追われる立場となり、各国は当然のように対策を練ってきた。特に世界王者ソ連は国を挙げてマーク。日紡貝塚の試合を4~5人のグループで密着して8ミリカメラで撮影するなど、あらゆる角度から分析されるようになった。

世界の主流は攻撃偏重だったが、大松のモットーは「守備は最大の攻撃なり」。その象徴が「回転レシーブ」だった。

欧州を転戦する中で、大松は日本の欠点を感じていた。「外国選手は長い手足で守備範囲も広いが、日本は尻もちをついてしまう。尻をつかずにボールを受けられないものか」。9人制ではレシーブで尻もちついても、ほかの8人がカバーできた。だが、6人制ではそうはいかない。レシーブしてすぐ攻撃に移る体勢をつくらないと、大きな穴ができてしまう。

また、9人制の名残で多用していたオーバーハンドパスが、欧州ではドリブルやホールディングの反則に取られることが多かった。新興国を認めたくないという審判の悪意もあったようだが、そうも言っていられない。セッターへちょうどいい高さのレシーブを返すためにも、アンダーハンドパス技術の向上は必須だった。

これまで届かなかった相手の攻撃をレシーブできる守備範囲の広さを求め、そしてすぐに攻撃の体勢もつくることができる。それを実現できるのが「転びながらボールを受け、その反動でクルリと起き上がる」プレーだった。のちに日本チームの代名詞になった「回転レシーブ」は、苦境の中から生まれてきたものだった。

61年に始めた練習は壮絶だった。大松はまず、体育館の硬い木製床へ何度も飛びこませた。飛び込んですぐ起き上がらないと、大松の打つボールが顔面目掛けて飛んできた。体育館の端から端まで回転しては起き上がる動きを繰り返す選手の体は、あっという間に青あざやナマ傷だらけとなった。ある時、練習見学に来た高校生がマネしたところ、鎖骨を骨折したという。一番のみ込みが早かったという松村好子が振り返る。

松村「先生が『これから秘密練習をする。誰も体育館に入れるな』と言うのが始まりでした。ギリギリのボールが飛んできて床に体をぶつけないといけないから、アザだらけ。それを1人300本でした」。

選手は腰や背中に座布団を巻きつけ、ひざにはサポーターをして飛び込み続けた。時には夜明けまで行われた特訓の中、大松は「できないことをやるのが練習だ」とハッパを掛け続けた。肩から落ち、すぐに左右に回転するレシーブ。選手は理論でなく、文字通り体で覚えていった。

やがてコツをつかむと、勢いを殺したボールを返せるようになる。セッター河西昌枝のトス回しがさえるようになり、攻撃の幅も広がっていった。会得するまで早い者で半年、遅い者で2年はかかったという「回転レシーブ」。苦労して手に入れたレシーブは当時、どこの国もできない日本オリジナルの「武器」だった。体育館を転がりまわった日々。選手は秘技とともに、猛練習を乗り越えた自信を手につかんでいた。(つづく=敬称略)【近間康隆】

◆日本が生んだプレー 「回転レシーブ」誕生後、60年代には男子代表が「独自のプレーを」と取り組んだ。トスを低く速く上げて素早く打つ「クイック」や、おとりのプレーヤーが飛んで相手のタイミングを狂わせる「時間差攻撃」、おとり役とアタッカーを1人で行う「一人時間差」を考案。多種多様の攻めで72年ミュンヘン五輪で金メダルとつかんだ。女子も「ひかり攻撃」と名付けられた長いBクイック(セッターから離れて平行トスを打つ)を武器に、76年モントリオール五輪で金メダルを手にした。

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