1年生の春。愛甲は、当時監督だった小倉清一郎が作った特別メニューにそって練習していた。のちに高校野球界きっての名参謀、名コーチといわれる小倉に、最初から目をつけられていた。

 愛甲 ずっと走っていた。あとはいろいろな形の屈伸をしたりね。1年生はグラウンドで止まってはいけない規則だから、走ったらスキップで戻る。そして走る。腹筋、背筋が一番休めるトレーニングだったね。みんなが仕上げのランニングをしている時にオレだけブルペンでノックを受けていた。ホントにきつかったよ。何で自分だけこんな目に遭うんだと思っていた。後から思えば、この練習をしていたから1年の夏から投げられたんだけどね。

 1年春からレギュラーだった同級生の安西健二は、この頃の小倉の様子を覚えている。

 安西 胴上げ用のスパイクを買ったんだよ。胴上げされても危なくないよう、刃からポイントのスパイクに変えた。「愛甲がいるから夏は優勝できる。甲子園に行ける。あいつの球は打たれない」って。

 小倉は、夏の神奈川大会を前に退任したが、いかに愛甲を高く評価していたか分かる。

 初めてのブルペン入りは雨の日だった。当時は合宿所の隣に雨天用のブルペンがあった。雨が降り、3年生から順番に投球練習することになった。

 愛甲 順番は最後だったかな。オレが投げているところを合宿所から先輩たちが見ていた。ずっと後で聞いたら「すごいヤツが入ったな」と言っていたらしい。でも、当時は自分がどれほどかは分かっていなかった。逗子ではちょっと名が知れていたかもしれないけど、今のように情報もない時代だからね。

 安西にも雨天用ブルペンの記憶が残っている。

 安西 衝撃を受けたよ。真っすぐは速い。カーブもキレている。「こいつはすごい」と思った。小倉さんが「絶対甲子園に行ける」と言うのがうなずけた。それぐらい違っていた。

 愛甲の初登板は5月の練習試合。ダブルヘッダーの第1試合で初めて背番号「19」をもらって先発した。だが、ストライクが入らず、1回持たずにKOされた。第2試合ではユニホームを脱がされた。

 初勝利は日大高との招待試合だった。先発で好投した。

 愛甲 投球より覚えているのは初打席だよ。無死一塁で送りバントのサイン。監督と3年生のプレッシャーがハンパじゃないから、ミスはできない。うまく転がして「やった、成功した」と思ったらホッとして、一塁に走らずベンチに戻っちゃった。バントは成功したのに結局メチャクチャ怒られた。まあ、野球やってて一塁に走り忘れるなんてあり得ないよね。一生忘れられない笑い話だよ。

 この日の好投で、以降は少しずつ練習試合で登板するようになった。ただ、愛甲自身は、まだ夏の戦力になれるとは思っていなかった。監督や先輩の前で緊張し、日々を夢中で過ごしていた。安心できる場所は1つだけだった。(敬称略=つづく)

【飯島智則】

(2017年5月11日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)