勉強ができるようになった佐々木は、神奈川県きっての進学校である湘南高校に進学した。1949年(昭24)のことだった。

 ごく自然な流れで決めた進学先だった。3年前の46年に野球部が創部し、父久男が初代監督に就任していた。長兄道也も創部メンバーで、最上級生では主将も務めた。弟の三男敬也も、のちに湘南に入り、二塁手として54年センバツ甲子園に出場する。

 長兄道也は当初サッカー部に入っていた。サッカー部は46年の国体で優勝するほどの強豪だった。野球は米国発の「敵性スポーツ」とみなされており、同校は野球部を認めていなかった。戦争が終わり、米国の占領が始まると野球部を立ち上げた。道也が、父久男に監督を頼んだ。

 部の立ち上げ資金も準備した。道也の1学年下のマネジャー高橋熙(ひろし)が、当時の人気オペラ歌手で世界的に有名な藤原義江と、人気ソプラノ歌手・砂原美智子の音楽会を企画した。藤原の息子が同校に在籍していた縁があった。

 副部長の添田徳積に手伝ってもらいながら、近隣にあった東京螺子(現ミネベアミツミ)のホールを借りて音楽会を開催した。大成功だった。純利益の大部分を野球部に、残りを他部に分配した。終戦直後でカネもヒトもモノもない時代。自分たちで道を切り開いた。

 主にサッカー部が使用していたグラウンドにマウンドを造り、バックネット代わりに竹ざおと網を張った。野球は金がかかる。部員たちは網の裏で、3円50銭で仕入れたアイスキャンディーを5円で売った。

 父で監督の久男は、当時では珍しいスタイルの指導だった。根性論による猛練習ではなく、自由な雰囲気で、合理的な練習を目指した。練習時間は短く、大会前でも2時間程度だった。

 佐々木 勉強が第1で、クラブ活動は第2位。夕方4時ぐらいに授業が終わってから練習をする。甲子園に行く前でも2時間ぐらい。猛練習とかした記憶がない。でも、とてもいい野球を教わったと思う。時間が少ししかないから、集中してやったと言える。

 時に別当薫、大島信雄、加藤進ら慶大OBのスター選手が指導にきてくれた。実際にプレーして手本を示してもらい、高いレベルの野球に触れた。砂場でスライディングキャッチも習った。派手なプレーを忌避される、当時の高校野球では珍しいプレーだが、甲子園の戦いで生きたという。短時間ながら豪華な練習だった。

 久男は、生前に当時を振り返り「インサイドベースボールの活用を考えた」と語っている。「湘南高校野球部甲子園史」の中に、「スポーツ毎日」を出典として記載されている。頭を使い、相手の心理を読みながら戦う。それが湘南のスタイルだった。

 久男は、恩師に影響を受けたと推測される。甲府中から進んだ慶大で、ハワイ出身の監督、腰本寿に指導を受けた。腰本は慶応普通部を率いた1916年(大5)に第2回全国中学野球選手権で優勝に導いた。慶大でも9年間で7度の優勝の黄金時代を築いた。理論的な指導、戦術重視の采配から、ニューヨーク・ジャイアンツの名将ジョン・マグローに例えられ「和製マグロー」と呼ばれた。久男は、腰本の下でマネジャーを務めていたという。

 久男が作り出した自由で合理的な雰囲気は、のちに全国優勝を勝ち取る大きな要因となる。(つづく=敬称略)

【斎藤直樹】

(2017年5月25日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)