主将の屋良景太は、沖縄の自宅でくつろいでいた。甲子園は2年連続の準優勝に終わった。那覇空港では前年の5000人には及ばないものの、1000人の県民が待ち受けて拍手を送ってくれた。厳しかった高校野球を終え、心と体を休めていた。

 何げなく、テレビをつけた。自分たちが映っていた。甲子園の閉会式のシーンだった。その時、屋良は跳び起きた。「何だ、これは…!」と叫んだ。大野の肘が曲がっていた。曲がったまま行進し、曲がったまま整列していた。屋良は隣に並んでいたが、気付いていなかった。

 屋良 肘が変な方向に曲がっていて…。その時、初めて倫が右肘を故障していたことを知ったんです。いつも隣に整列していたのに全く気付かなかった。オレは何をやっていたんだろうって思いました。倫が1人で頑張っていたのに…。オレは気付いてやれなかった。そればかりか倫のことを責めてしまった。

 他のチームメートも同じだった。大会を終えて、沖縄に戻ってから大野の故障を知った。大会中から新聞などで肘の故障は報道されていた。だが、彼らは目にしていなかった。移動のバスに医師が同乗していたこともある。それもチーム内では深刻に受け止められていなかった。肩痛でベンチを外れた末吉朝勝が、その理由を推測する。

 末吉 当時はちょっと痛いくらいでは、練習をやめなかった…。時代的にも故障に鈍感だったというのもあると思います。

 大野は甲子園大会の後、高校日本代表に選出され指名打者として出場した。桐蔭学園の高木大成や、星稜の松井秀喜とともに打者として活躍した。

 沖縄に戻ると検査を受けた。春に右肘を痛めてから、ずっと避け続けていた病院へ行った。

 診断は「右肘の剥離骨折」だった。亀裂も入っており、軟骨も欠けていた。医師からは「この肘の状態ではピッチャーは無理だろうね」と言われた。

 大野 覚悟はしていたので、やっぱりかと。ただ、骨折にはビックリしました。亀裂も入り、軟骨も欠けていると。ビー玉くらいの骨片も浮いていました。

 10月に沖縄県内の病院で手術を受けた。本格的なスローイング再開まで約1年かかった。

 チームメートは、ギプス姿の大野に声をかけられなかった。本来ならば「大丈夫か」と気遣いたかった。「きっと治るよ」と励ましたかった。だが、彼らは大会前に大野を責めていた。不調なのに練習しない態度を非難した。ベンチを外れた知念直人は、草刈り鎌を手に大野を追いかけ回したこともある。

 知念 オレは何てことをしたんだって思いました。あいつの頑張りも知らずに…。本当に申し訳ないなと思います。いつも、会うたびに「あの時はごめんな」と謝ろうと思うんですけど、まだ言えてないんですよね。ここまで来たら、死ぬ時に謝ろうと思ってるんですよ(笑い)。

 大野の故障は、高校球界にも影響を及ぼした。甲子園で投じた773球は、あまりにも過酷ではないか。3回戦から4連投の546球は酷使ではないか。

 結果的にベンチ入り人数が15人から18人に増え、大会前のメディカルチェックにつながっていく。

 監督の栽を批判する声も上がった。その声が、大野を奮い立たせた。(敬称略=つづく)

【久保賢吾】

(2017年6月30日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)