マンガのチームが甲子園にやってきた-。91年の夏、初出場の新潟県代表が注目された。校名は「新潟明訓」。高校野球マンガの名作「ドカベン」で、主人公山田太郎たちが所属する「明訓」のモデル校だ。新潟明訓はこの年を皮切りに夏7回、春1回の甲子園出場。ドカベンと共存しながら、新潟県屈指の強豪校になった。

 ◇  ◇  ◇

 異様な雰囲気だった。「言いようのないすごさを感じました」。当時の新潟明訓の監督、佐藤和也(61=新潟医療福祉大監督)は振り返る。91年夏、開会式直後の第1試合。新潟明訓は甲子園デビュー戦で柳ケ浦(大分)と対戦した。開会式の余韻をひきずった独特の空気の中、試合は1-8で完敗。ただ、佐藤とナインがもっとも印象的だったのは、観客の反応だった。

 攻撃時など「新潟明訓」という場内アナウンスに「おお!」と歓声が上がる。多くのファンが「明訓」を堪能していた。「実感しました。ドカベンは有名だなって」。外野手で副主将だった本間健治郎(44=新潟明訓監督)は思った。

 新潟市出身の漫画家、水島新司(79)の作品ドカベンは、週刊少年チャンピオンに72年から81年まで連載された。神奈川県の明訓高校野球部を舞台に、山田、岩鬼正美、里中智、殿馬一人、微笑三太郎らが物語を織り成す。水島が少年時代、新潟明訓に憧れながら、家庭の事情で進学を諦めた。その思いの強さから「明訓」に登場させたといわれる。

 甲子園で4度優勝したマンガの明訓の知名度は抜群だった。「県外の高校に練習試合を申し込むと、『神奈川ですか』と言われました。そのたびに、うちは新潟の高校で大正10年に創立して、マンガの明訓より歴史があるんですよ、と説明して(笑い)」。84年に監督に就任した佐藤は、そんなやりとりを繰り返した。

 ただ、比較されることに抵抗はなかった。「むしろ、うまく乗った方ですね」。監督就任時に聞いた、学校首脳陣の思いがあった。「マンガではなく、『明訓』は本当にある。世間に知ってもらうためにも甲子園を目指したい、と。これは男としての大事業だと感じました」。佐藤にとって、ドカベンは励みになりえた。

 野球人として、最もドカベンに共感したのは登場人物たちだった。「主人公は山田だけど、山田の物語ではない。登場人物たちの個性が組み合わされてできている。それぞれの長所を生かすことで、チームが強くなるのは、高校野球でも大切な部分」。佐藤は指導する上で個性を重視した。

 丸刈りには違和感があった。選手に髪形は「自由にしていい」と言ってきた。「みんなが同じような姿で、同じように大声を出して。それが高校野球のイメージ。でも、野球は修行ではない。練習も試合も楽しくやればいい」。おおらかなドカベンの登場人物たちの姿と、自身の野球観は重なった。練習では佐藤が選手をいじり、笑いを誘う。そこから選手間のコミュニケーションが生まれ、励まし合う声が出る。そんな雰囲気が出来上がった。

 12年の夏の甲子園、3回戦進出を最後に佐藤は勇退した。「新潟明訓をある程度、全国に知ってもらえたと思う」。後を継いだ本間は言う。「今の選手もドカベンは知っている。でも、だからと、うちに来る選手はいないと思う」。ドカベンのモデルの新潟明訓、ではなく、新潟明訓をモデルにドカベンがつくられた-。そう言える時代になった。(敬称略)【斎藤慎一郎】