「バチンッ」。95年春のセンバツ、今治西(愛媛)の藤井秀悟(元巨人)は準々決勝の神港学園(兵庫)戦の9回、初球を投げた瞬間に変な音を聞いた。1点リードで、あとアウト3つで準決勝進出が決まる大事な場面だった。あまりの痛みに、藤井はただマウンド付近を歩き回った。

藤井 もう、何が起こったのか、わからなくて…。生まれて初めてのケガだったので、高校生の自分では収拾がつかなかった。

異変に気付き、集まった仲間から、肩や背中を「ポンポン」とたたかれた。体を「ポンポン」とたたくのは当時、今治西のナインの間で流行した体のケア方法だった。監督の宇佐美秀文は急きょ、控え投手をブルペンに走らせ、肩を作らせた。だが、主将として、エースとして、自らの意思で続投を決断した。

2球目、投げる瞬間に恐怖に襲われた。足を上げ、テークバックまでは普通だったが、リリースの瞬間に怖さで腕が緩んだ。4球連続ボールで四球。駆け寄った伝令に「ごめん、無理だ」と一塁に回った。

一塁の守備に就くと、ぼうぜんとした。「もう、野球は無理だな…」。「お母さんが言ってたように、ちゃんと勉強もやっておけば良かったな…」。絶望感に襲われ、後悔や不安ばかりが頭を巡った。

藤井 パニックでした。主将だったので、たぶん声は出してましたけど、ただ発しただけ。ほとんど記憶がないんです。

ふと、バックスクリーンを見た時に、逆転された事実を知った。試合は9回2死三塁から、藤井が同点の適時打をマーク。延長13回の末にサヨナラで勝利した。試合後、大阪大医学部付属病院に向かった。「もうダメだろうな…」と放心状態の中、精密検査を受けた。診察結果は「左肘内側側副靱帯(じんたい)の損傷」だった。

ケガの詳細は高校生にはよくわからなかったが、症状が重いことはすぐに理解した。担当の医師から、こう告げられた。

「準決勝以降は投げてはいけません」

93年夏に始まった肩、ひじ検査以降、史上初の投球禁止指令だった。

頭の中では理解したが、諦めなかった。検査後、はり治療を受けるなど、治療に奔走。チームメートが寝静まった深夜にこっそりと宿舎に戻った。一睡もできず、準決勝の銚子商戦の朝を迎えた。藤井は「投げます」と言ったが、当然却下。「4番一塁」で起用され、2-6で敗れた。

センバツ以降も、藤井は月1回ほどのペースで大阪大医学部付属病院を訪れ、リハビリに励んだ。医師から投球の制限を受け、再開は夏の県大会1カ月前の6月ごろだった。だが、本来の姿ではなく、夏の県大会は登板なしで敗退した。

91年の夏、沖縄水産の大野倫は右肘を疲労骨折(大会後に判明)しながら、773球を投げ抜き、投手生命を絶たれた。悲劇を機に故障への意識が見直され、検査がスタート。開始から4年後、故障は防げなかったが悪化は防ぎ、将来の可能性は残した。

藤井は高校卒業後、早大に進学した。リーグ通算24勝を挙げ、99年ドラフトでヤクルトに入団。01年には最多勝を獲得した。計4球団を渡り歩き、14年に現役を引退。15年からは巨人で打撃投手を務める。

ケガが判明した時、藤井は報道陣にこう言った。「このケガが後々、良かったと言えるようにします」。今も投げ続ける姿こそが、その答えである。(敬称略=つづく)

【久保賢吾】

(2018年4月26日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)