西本は1956年(昭31)6月27日、松山市の興居島(ごごしま)で7人きょうだいの末っ子として誕生した。同島は松山港(高浜港)からフェリーで約10分ほど。海と山に囲まれた自然豊かな島で西本は育った。海で泳ぎ、野山を駆け回った。

父友五郎(故人)は南満州鉄道(満鉄)で働いていたが戦後帰国。九州を経て愛媛に移住し興居島で漁師となった。五男で末っ子の西本が生まれたとき、友五郎は48歳。父は大柄でがっしりとした体格だったという。

小学校に入学すると三角ベースに夢中になった。引き潮になった砂浜に足でラインやベースを書き、潮が満ちてベースが海水で消えるまで熱中した。

西本が小学4年の夏(66年)、三男明和が松山商のエースとして甲子園に出場した。1回戦から準決勝までの4試合をすべて完投(うち2完封)し決勝に進出。決勝も完投したが中京商に1-3で敗れた。

西本 両親と家族で初めて甲子園に行ってアルプス席で応援しました。ただ野球よりも大観衆の雰囲気に酔ったという感じ。子どもながらに圧倒されました。

さらに中学1年夏には四男の正夫も松山商の一塁手として甲子園へ。西本は再び甲子園に応援に行った。松山商は三沢との決勝再試合を制し夏の甲子園4度目の優勝を果たした。

興居島中で本格的に野球を始めた西本は1年夏の松山市内の大会で優勝。当初は長嶋茂雄に憧れ三塁手を志望したが、打撃投手をするうちに自然の成り行きで投手に。その大会では2日間で4試合に登板するなど大車輪の活躍で優勝に貢献した。

順調なスタートだったがその後、一時野球を離れた時期があった。

西本 3年間の中で1つ出来事があって、先輩に殴られたりしたことがあって、それが嫌で野球部をやめました。1年の時だったと思います。やめて卓球部に入りました。隣の席の友人が卓球部だったんです。自宅に卓球台を作って練習しました。市内大会の予選にも出ました(笑い)。

ただ、半年後には再び野球部に戻った。

西本 やっぱり野球をやりたかった。兄貴(正夫)の甲子園での延長18回再試合を見ていたし、同じように自分も甲子園に出たいという思いが強かったんだと思います。

中学を卒業した西本は72年春、兄2人と同じ松山商の門をくぐった。(敬称略=つづく)【福田豊】

(2017年10月16日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)