帝京監督の前田三夫は、指導に自主性を取り入れた。72年の監督就任から25年以上がたち、かつてスパルタが当たり前だった時代は過ぎた。時代の変化とともに高校野球も変わる。そう感じたからだった。

98年夏、森本稀哲(元日本ハム)に主将を任せたチームには、練習メニューや練習時間も自分たちで考えさせた。そのチームが、甲子園出場を果たした。

「その時は、やっぱり考えたよね。指導者としてこんなに楽なことはない。生徒にやらせれば勝てる。なるほどな。こういう方法もあるんだと。半面うれしかった部分がありますよ」

ただ拭い切れない違和感はあった。「甲子園に出れば、みんな目がギラギラしますよ。そういうものはなかったね。違う空気が流れている。ベンチの中が普通の練習試合みたい」。過去のチームは甲子園に入れば、コンビニなどを含めて一切外出禁止にした。ただ自主性を取り入れたチームには、それも許した。

甲子園では、3回戦でソフトバンク和田を擁した浜田(島根)に敗れた。最後の夏を終えた選手は、宿舎に戻って控え選手たちと抱き合う。レギュラーは謝り、涙で感謝を伝え合う-。

「そういう感動的な場面は今まではありましたよ。でも宿舎に帰ったら、レギュラーと補欠が『終わったぞー』って言って抱き合った。がっかりしたね。良かれと思って時代の流れに乗ったけど、今の帝京の野球部は違うと。自分自身、分からなくなりましたね」

スパルタもダメ、自主性もダメ…。「指導する上で何が一番いいのか。とにかくあえいでましたよ。だから原点を見たかった」。

秋季大会後、試験期間中に休暇を取って単身米国に自費で向かった。英語は分からない。「カンで乗ったよ」とロサンゼルスからサンディエゴにプロペラ機で向かった。パドレス-ヤンキースのワールドシリーズ真っ最中だった。ヤンキースが4連勝したシリーズで、パドレスファンの姿に心を動かされた。

「負けていても、点を取れなくてもスタンディングで選手を出迎える。これだなと。勝っても負けても感動というか、素晴らしいというものを、これからの帝京は見せないとダメ。そう感じましたね」

帰国すると、すぐに選手たちを集めた。帝京は昼休み3合ご飯を食べ、筋力トレーニングをすることで屈強な体をつくるのが伝統的だった。クロスプレーでは相手を倒すこともある。

「普通であれば知らんぷりしていたけど、手を差し伸べてやれと。キャッチャーに例えれば、打者がファウルを打ったら、バットを拾って、汚れがついていたら自分の、帝京の縦じまで拭いてやれ。そういうことをやっていこうと。そしてまた勝ち続けよう」

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06年夏の甲子園。準々決勝で帝京は智弁和歌山に12-13で敗れた。9回に8点を奪って逆転したが、9回裏に投手を使い果たして5失点でサヨナラ負け。高校野球史に残る熱戦だった。

試合後、敗れた帝京にも、甲子園中から大きな拍手がわき起こった。

「背中というか、体に電気が走ったね。喜んでもらえたというのは、今までやってきたことは間違いじゃないんだと」

帝京は11年夏を最後に甲子園に出ていない。前田にとっては初出場後からの最長ブランクが続く。95年を最後に日本一からは遠ざかり、勝ち続けることはできていない。それでもOBはプロで活躍し、ファンに愛される野球は少しずつ浸透してきている。

「高校野球は時代とともに変わってますから、そういうものを感じ取っていかないと取り残されてしまう。そういう風に僕は感じたな。本当に挑戦ばかり。いくつになってもテーマというのが出てくるね」。高校野球100回大会の夏、69歳になる前田は47回目の新たな挑戦に歩みを進める。(敬称略=おわり)【前田祐輔】

(2018年1月26日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)

智弁和歌山・高嶋監督(左)と帝京・前田監督(2015年撮影)
智弁和歌山・高嶋監督(左)と帝京・前田監督(2015年撮影)