どんな名選手にも引退の時はやってきます。指導者の道を歩む者もいれば、解説者などの道を進む者もいます。スタッフとして別の形で競技に携わる者もいます。そして、まるで別の世界へ飛び込んでいく人々もいます。輝かしい選手生活ばかりが人生の成功ではありません。引退後に各界で輝いている元アスリートの今を追いかけます。


元阪神投手で公認会計士になった奥村さん
元阪神投手で公認会計士になった奥村さん

 奥村武博さん(38)とは、東京・千代田区のオフィスで会った。スーツの着こなし、さわやかな笑顔、やわらかな語り口調… まさにビジネスマンといった風情が漂う。彼は今、おそらく元プロ野球選手として初であろう公認会計士として活躍している。


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 岐阜・土岐商から1997年ドラフト6位で阪神に入団した。だが、わずか4年間で戦力外通告を受けた。打撃投手に転身するも、これも1年間で解雇された。

 引退後の仕事として漠然と思い描いていた飲食業の世界に入ったが、すぐに行き詰まった。将来の不安を抱えながら、ホテルの調理場でアルバイトを続けていた。

 そんなある日。自宅へ戻ると分厚い資格ガイド本が置いてあった。当時付き合っていた彼女が買ってきてくれたものだった。

 「何これ?」

 「世の中にはこんなにたくさんの仕事、たくさんの資格があるのよ。何か1つぐらい、あなたに合う仕事が見つかるんじゃないの?」

 奥村さん(以下、敬称略) 彼女は、資格を取らせたくて買ってきたんじゃないんです。あの時、私は世の中をまったく知らず、飲食業という狭い範囲でしか将来を考えていませんでした。そんな私に、世の中を、現実を知ってほしい。視野を広く持って物を考えてほしいと。後で聞いたら、ずっと考えてくれていたそうです。口で言っても私に響かないから、形のある本を買ってきたのでしょうね。客観的で分かりやすいですから。

 奥村さんは資格ガイドをパラパラとめくった。難関資格に目がいった。弁護士、医師…。

 奥村 これはドラマにも出てきますから私でも知っている。こんなの取れたらいいなとは思う。でも、弁護士になる司法試験は法科大学院を出るなどの条件があり、医師は医学部を出ないといけない。なるまでのステップでハードルが高いと自分であきらめてしまいます。これは無理と。

 公認会計士を見つけた。3大国家資格といわれる難関だが、試験内容に簿記が入っている。ここで目が止まった。

 奥村さんは土岐商時代に日商簿記検定2級を取得していた。

 興味を持って調べてみると、2年後の2006年から受験資格が変わることが分かった。

 それまでは大学で一定の単位を取っていなければ、英語、国語、数学、論文といった1次試験を受ける必要があってハードルが高かった。だが、06年から制度が変わり、学歴による制限がなくなる。

 つまり、高卒の奥村さんには有利な改正だった。

 奥村 全く知らない世界ではなく、昔に経験したことから入っていける。さらには2年後に受験資格のハードルが下がる。自分が目指すべき資格はこれかなと思いました。

 奥村さんはチャレンジを決めた。資格ガイド本を買ってくれた彼女に決意を伝えた。

 奥村 何て言われたかな? 反対はされなかったと思います。反対されていたら記憶に残っているでしょう。説得していたか、もしかすると目指すべき資格が変わっていたかもしれません。

 一冊の本で、奥村さんの世界は大きく広がっていった。近所の資格予備校に通って勉強を始めた。まさか受験生活が9年に及ぶとは、想像もしていなかった。


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 奥村さんは岐阜出身で、岐阜県立土岐商業高校の経理科に入った。当初は普通科の高校を目指していたが、野球仲間と誘い合って入学を決めた。将来に影響を及ぼす大きな決断となった。

 投手として活躍し、2年では岐阜大会の4強入りした。3年は決勝まで進んだが、のちに広島に入る石原慶幸捕手を擁する県岐阜商に敗れた。

 卒業後は社会人野球を続けるつもりで内定も得ていた。だが、スカウトから声がかかり、ドラフトで指名するといわれた。

 奥村 親からは反対されました。プロを辞めた後の将来の不安からですね。高校からプロというのはどうかと。社会人で経験を積んで、それからプロでもいいのではないかと反対されました。でも、私とすれば、小さい頃から夢見ていたプロのチャンスがある。社会人に行っても、同じように指名してもらえるか分からないでしょう。ピッチャーなので、肩や肘は消耗品。けがをする可能性もありますから。

 何度も話し合った末に、奥村さんは自分の意思を通した。

 奥村 後悔するよりも、プロに入ってどうなるか分からないけどチャレンジしようと決めました。親にも『プロに行くので認めてください』と言いました。自分でも不安はあったと思いますが、それよりプロに入れる期待度の方が高かった。活躍して野球を続けていくイメージの方が強かった。


阪神1998年新人選手入団発表。(後列左から)奥村武博、山岡洋之、坪井智哉、橋本大祐、(前列左から)井川慶、三好一彦球団社長、吉田監督、中谷仁
阪神1998年新人選手入団発表。(後列左から)奥村武博、山岡洋之、坪井智哉、橋本大祐、(前列左から)井川慶、三好一彦球団社長、吉田監督、中谷仁

 1年目はウエスタン・リーグで5試合に投げ、0勝2敗。防御率は7・59だった。オフに右肘を手術した。

 奥村 これは前向きな手術でしたから、将来に不安は感じませんでした。でも、3年目、4年目に、けがが重なって体も満足に動かなくなった。この時は『そろそろ危ないかもしれない』と思いました。

 3年目の2000年には1軍のオープン戦で登板した。地元の岐阜・長良川球場で行われた巨人戦にも登板予定だったが、雪が降ったために5回表が終わった時点でコールドゲームになった。奥村さんの地元凱旋(がいせん)は幻となった。

 当時の野村克也監督から、OBの小山正明投手になぞらえ「小山2世」と呼んでもらった時期もあった。しかし、左脇腹肋骨(ろっこつ)の骨折や、肩を痛めるなど故障が重なった。

 奥村 肋骨は完治したんですけど、怖さが残っていたのか肩に来てしまいました。

 2001年は、やはりウエスタン・リーグで6試合に登板し、0勝0敗だった。戦力外通告もありえる。危機感はあった。

 奥村 不安はありましたが、そのときに備えて勉強するなど具体的な行動はしませんでした。友人と『一緒にバーをやろうか』と話すなど、漠然と飲食業を意識したぐらいでした。


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 9月末だったと記憶している。球団寮の自室にいると、内線電話が鳴った。呼ばれた部屋に行くと編成担当がいた。「来季は契約しません」と言われた。

 奥村 部屋の内線が鳴った時、ついにきたと思いました。そういう時期でしたから。呼ばれた部屋には契約更改でしか会わない編成の方がいて… 通告された以外にも、いろいろ話したと思うのですが、覚えていません。

 ショックは大きかった。だが、数日のうちに打撃投手として球団に残る話をもらった。少なくとも職は残った。

 奥村 野球界に残っていれば、現役復帰の道も探れるかなと。かすかな期待もしていました。まだ22歳と若かったので。

 しかし、打撃投手としての生活は1年しか続かなかった。選手時代の抑える投球から、打たせる投球への転換ができなかった。つい力を入れて抑えにかかってしまう。際どいコースを狙ってしまう。

 奥村 打者に気持ちよく打ってもらい、若手が1軍に定着する手伝いをしたいと思っていたのですが… できませんでした。

 1年後に再び戦力外通告を受けた。今度は球団事務所に呼ばれ、打撃投手としての契約打ち切りを宣告された。

 他球団で打撃投手をする道を模索するよう勧めてくれる人もいた。独立リーグなどでプレーする道も考えられた。

 だが、奥村さんは、球界を出ると決めた。トライアウトを受けて不合格に終わると、すっぱり野球への未練を断ち切った。

 奥村 肩の状態もよくなかったし、野球を続けても長続きしないと思いました。30歳の手前でそうなるなら、早い段階で外に出た方がチャンスがあるのではないかと。まだ1浪して大学を出たぐらいの年齢でしたから。

 そう言った後で、付け加えた。

 奥村 若干、強がりの気持ちもあったんでしょう。

 幼少時から野球に明け暮れ、野球だけに熱中してきた奥村さんが、初めて野球から離れた。

 まだまだ公認会計士への道は始まらない。チャンスより先に、まずピンチが訪れた。(つづく)【飯島智則】