1978年(昭53)年夏、6度目の出場となる仙台育英は、高松商(香川)との延長17回の激闘の末、1-0でサヨナラ勝ちし、悲願の夏初勝利を挙げた。エース右腕大久保美智男さん(54)は、暑く、つらかったその試合を今でも鮮明に覚えている。

78年8月 夏の甲子園でマウンドに立つ仙台育英・大久保
78年8月 夏の甲子園でマウンドに立つ仙台育英・大久保

 巨体の仙台育英・大久保と細身の高松商・河地良一。2人の譲らぬ投げ合いは、0-0のまま延長に突入した。

 大久保 点数が入らないし、いつまで続くの、と。つらかったね。8時からの試合だったので、3時に起きて、散歩して球場入り。だから試合中におなかがすいて、(金沢)監督に「腹が減って投げられません」と言いました。部長に途中でサンドイッチを買ってきてもらったけど、暑すぎて温まっちゃって、結局食べずに水だけでお昼まで乗りきりました。相手の河地はバテてたみたいだけど、自分は平気だった。スタミナはありましたから。

 0-0のまま迎えた、延長17回裏仙台育英1死満塁。高松商河地の205球目が仙台育英9番嶋田健の頭部に当たり、押し出しで決着がついた。3時間25分の激闘だった。

 大久保 ほっとしました。2年生の時も負けていたのでプレッシャーもありましたし。初めて勝って校歌を歌うことを知らなかったから、あいさつの後、全員すぐにスタンドの方に向かおうとしてしまい、審判に引き戻されました。だから、列がベンチの方に寄ってたんです。3回戦で高知商に敗れて、悔しいのもあったけど、これで終わりなのか。仲間と野球できないんだとまず思いました。

78年夏1回戦のスコア
78年夏1回戦のスコア

 宮城・塩釜生まれ。中学時代は無名だったが、仙台育英では1年春から4番左翼のレギュラーを勝ち取り、その秋から背番号1を背負った。183センチ80キロ超の堂々とした体と丸顔から「金太郎」の愛称がついた。

 大久保 「金太郎」と言い始めたのは金沢(規夫)監督の奥さんでした。最初は恥ずかしかったけど、プロになっても言われましたね。うちのおやじは昭和3年生まれで身長175センチ。当時としては大きかった。しかも船大工だったから腕がガチガチですごい。力強さはおやじから来たと思う。当時の自分は太ももが70センチ、女性のウエストぐらいあった。学校のある宮城野原から石巻の野蒜地区まで3時間走ったり、練習でとにかく走ったから。

 78年ドラフト2位で広島に入団し、3年目で外野手に転向。85年に引退した後は地元塩釜に帰り、サラリーマンになった。その後独立し、今も時に地元で小、中学生に野球を教えている。11年3月11日、塩釜で被災した時には、教え子に助けられた。

 大久保 自宅の1階に水が入ってきて、2階から自分の車2台が流されるのを見ているしかなかった。食べるものがないけど、車がないから取りに行けない。仙台にいる教え子が、おにぎりを差し入れで持ってきてくれたのが一番助かったなぁ。

 甲子園のことを鮮明に覚えているのは、当時珍しかったビデオで録画していて、毎年正月のたびに同級生で集まって思い出話をしていたからです。ビデオは津波で流されてしまったけど、今思えばDVDにしておけばよかった。今でも延長17回のことを言われるし、野球を教えに行くと、親世代にサインを求められます。(敬称略)【高場泉穂】