1人の関西人が宮城の、東北の野球を変えた。和歌山出身の竹田利秋氏(74=現国学院大総監督)は、大学卒業後、1年間の銀行員生活を経て、1965年(昭40)に東北にコーチとして就任。68年から監督となり、春夏計17度出場。86年に移った仙台育英でも10度甲子園に導き、89年には準優勝を果たした。甲子園通算成績30勝27敗は、勝敗数ともに東北で1番。貫いてきたのは、選手の心を鍛え育てることだった。

95年8月、甲子園で采配を振る仙台育英の竹田監督
95年8月、甲子園で采配を振る仙台育英の竹田監督

 毎年1月、竹田の東北、仙台育英、国学院大3校の教え子が一堂に会す「竹友会」が都内のホテルで開かれる。竹田は会の度に、1人1人謝ってまわるという。

 竹田 ごめんな、教え方下手くそで。苦労させて、と。毎年のように言ってます。若い頃は、教えるの下手だったと思うよ。

 指導者としてのスタートは今からちょうど50年前。当時の監督だった松尾勝栄の熱心な誘いに折れ、竹田は銀行を辞めて「未知の世界」仙台へやって来た。だが、当時よそから来た者、特に関西人への風当たりは相当厳しかったという。

 竹田 学校の内、外。針のむしろに座ったって、ああいうことをいうんじゃないかな。くそぉ、と。これを何とかしなかったら、来た意味がないと思った。

 就任直後の春は県大会初戦コールド負け。必死のチーム強化が始まった。喫煙、いじめもあったチームを変えるため、グループを作って、それぞれに学生コーチを配し、選手間の管理を徹底させた。また、雪のハンディをカバーするべく、時間の無駄を排除した。必ず一番にグラウンドに行き、準備が遅い選手に怒号を浴びせた。寮では、布団のたたみ方から、ほうきの掃き方まで細かく教える。技術以前の「人間力」を鍛えることに力を入れた。

 それでもコーチ時代の3年間は甲子園に届かなかった。監督になった1年目。甲子園に行かなければクビ、と決まっていた。だが、その夏甲子園出場を決める。竹田は「これで気持ち良く辞められる」と思って大阪入りした。だが、抽選会の光景を見て、心が変わった。

 竹田 抽選会場で、東北の選手はみんな静か。劣等感というか圧倒されてるわけ、西に。その光景を見たときに「なんだこれは」と。九州と対戦が決まると、あっちはやんややんや。勝ったみたいだった。試合する前からこんな心理状態じゃどうにもならない。自信を持たさなきゃいけないと思いました。

 それから、自信を植え付けるために生徒にユニークな練習を課した。全員の前で歌を歌わせたり、東京遠征の際にはわざわざ満員電車に乗せ、人混みに慣れさせたり。ジャズダンスを踊らせたこともあった。手応えを感じたのは72年春。準決勝で敗れたが「その時の子らは心から堂々としてた。三沢と磐城がその前に準優勝していたのも大きかった」。日本一を本気で狙えるまでになっていた。

 仙台育英時代の89年には後にダイエー入りするエース大越基を擁し、初めて決勝まで進んだが、延長10回0-2で帝京に敗れた。

 竹田 これは勝てた。勝たなきゃいけなかった。これは私が下手だった。帝京との差ではなく、私の采配で負けた。選手はがんばってくれたけど、私が下手くそだった。

 甲子園での27敗は、現在歴代4位。この負けが今でも糧になっている。

 竹田 負けるってことはもっと勉強しろ、ってことなんです。27敗からいろんなことを学んだ。今でも学ぶことばかり。もっとこうした方がいいと、次から次へと発見があります。

国学院大の竹田利秋総監督。青葉寮の前で
国学院大の竹田利秋総監督。青葉寮の前で

 74歳の今も、元気に指導を続ける。依頼があれば全国どこでも教えに行き、また国学院大にはプロ選手が教えを請いに訪れる。

 竹田 自分で言うのもなんだけど、今が一番教えるのが上手。今、監督やったら、練習時間も短くて、選手を苦しめなくて、それでいて強いチームを作れる自信あるよ。問題は体力がない(笑い)。人間ってそういうもんだと思う。若い時は体力があるけど、指導力がない。そういうもんなのよ。(敬称略)【高場泉穂】