卒業式シーズン。3月1日、宮城・県立志津川でも卒業式が行われた。南三陸町唯一の高校で、野球部3年生の数は11人。東日本大震災で被災し、グラウンドの約半分が仮設住宅で占められていることから、野球部の選手たちはこれまでメディアで多く取り上げられてきた。筆者も折に触れて取材に行き、昨夏の宮城大会中のコラムで「1年間のジャイアントキリング大作戦」というタイトルで執筆させてもらったりしていた。

(https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/1680694.html・2016年7月19日配信)

 このコラム投稿のあと、東北高は仙台育英を破り(準決勝)甲子園出場を果たす。宮城大会6試合中、東北高が志津川に打たれた被安打9が同校最多だったことから、少数公立校野球部の可能性を感じるきっかけにもなった。

 「あの11人は、あれからどうしているのだろう?」

 そんな思いもあり、卒業式に足を運んだ。そこで「志高(しこう)野球部」には、まだ続きがあったことを知った。

全員が地元出身。幼少時代から一緒に野球をやってきた仲間と、笑顔で記念撮影をする三浦優選手(写真前列左から3人目)
全員が地元出身。幼少時代から一緒に野球をやってきた仲間と、笑顔で記念撮影をする三浦優選手(写真前列左から3人目)

 「引退しても、志津川高校野球部員。卒業までは関わっていたいなと思っていましたが、受験勉強もあってなかなか来れていませんでしたね…」。

 「卒業生」として久しぶりにグラウンドに立ったエース・三浦優(3年)は、懐かしそうに話した。12月、県職員採用試験に合格した。高卒志願者の倍率は約13倍。大学野球部数校から誘いもあり、硬式野球をやるか迷ったが、引退後は公務員1本に進路を絞り、毎朝9時から17時まで学校で受験勉強に没頭した。難関を突破した代わりに、身体はすかり鈍(なま)ってしまったと笑う。

 「自分にはすっと夢があったんですよ。震災復興が進んでいく中で、町のために働けることはないか、って。志津川高校は、グランドに仮設住宅がある環境で、全国から支援の物資もたくさん届きました。いろいろな方から応援してもらいました。卒業したら今度は自分が職員となって、復興のために働きたいと思っていたんです」

汗を流したグラウンドで校歌を歌い、最後は一礼をして卒業をした志津川の選手たち
汗を流したグラウンドで校歌を歌い、最後は一礼をして卒業をした志津川の選手たち

 夏の大会前。隣接する仮設住宅に打球が飛んで行ってしまい、三浦選手と取りに行くことがあった。固い硬球は危ない。「スイマセン…」。謝りに行くと、待っていた女性が「いいのよ、どんどん打って、飛ばしてちょうだいね」とボールを手渡してくれた。つらい思いを明るさで隠して応援してくれた住民の人たちと一緒に、野球部は育った。試合の朝、住民全員が出てきて、新聞チラシで作った小旗を振って送り出してくれたこともあった。被災地のハンディを選手たちは一度も口にしたことはない。繰り返す「恩返し」の言葉には、全てが伝わる思いと温かさがあった。

Koboスタで躍動した夏(2016年)。東北相手に全力を出し切れた高校野球に、悔いはない
Koboスタで躍動した夏(2016年)。東北相手に全力を出し切れた高校野球に、悔いはない

 主力として活躍した三浦選手。歌津中学時代は県選抜に選ばれ、高2年夏はエースとしてベスト16入り。3回戦の仙台育英戦では三盗を絡めて先取点を奪った。佐藤世那(オリックス)、平沢大河(ロッテ)のいた強豪相手に3打数3安打。 佐々木順一朗監督から「素晴らしい選手。センスの塊」と評された。そして高3夏も東北に善戦。周囲から「野球を続けて欲しい」と言われと、迷いの虫が顔を出した。「そんな時はバットを振ったり、キャッチボールをして気分転換しました」。小6で被災し、何もかもが流されてしまった時と同じ。「野球が気持ちを明るく、前向きにしてくれた」と話す。

3年生11人の寄せ書きには「人のためになりたい」という将来への思いが伝わってくる
3年生11人の寄せ書きには「人のためになりたい」という将来への思いが伝わってくる

 震災復興と言っても、簡単なことではない。過疎化が進む南三陸町は、人口減が約30%(県2位)と深刻だ。新しく作るもの、教訓として残すもの。住民の心の置き場所。そういったもの全てを考えなければ「復興」と言えない。それだけに三浦選手は「そこに住んでいる人がどれだけ住みやすい街になるかが大切。県職員が一方的に進めるんじゃなくて、一人一人の言葉に耳を傾けられる職員になりたいです」と強い口調で語った。彼ならきっと、やってくれる。

震災からもうすぐ6年。高校野球が残したものが、ここにもある。【樫本ゆき】