巨人が明日5日のヤクルト戦(神宮)で、通算1万試合目を迎える予定だ。球団職員で、巨人のウグイス嬢38年の山中美和子さん(58)は、節目の試合を「変わらぬ日常の積み重ね」だからこそ価値があると捉えた。戦後70年の夏に迎えた節目を前に“レジェンド”山中さんに、ジャイアンツの今昔、未来を聞いた。

 「4番、ライト、長野」。涼やかで優しい声は、耳にすっと入ってくる。山中さんは、後楽園球場の時代から38年、場内アナウンスを続けている。デビュー当時、ウグイス嬢の先輩から「場内放送係は、審判の代わりに告げる人。変な抑揚を付けずに、普通にハッキリと言うこと」と言われ、純粋に守ってきた。ほんのちょっとだけ巨人側のコールに抑揚を付けたのは、10年以上過ぎてから。耳の肥えたファンならお分かりだろうか。

 毎日同じ声を届けよう。心に誓った。「ファンにとっては、この1試合が最後の観戦になるかもしれない。間違えずに、変わらず言うだけ。いつも同じように、間違えずに言う。いつも通りが難しい。でも変わらずに届けたい」。巨人戦の一部分として溶け込むことを何より大切にした。日本で最も深くジャイアンツ戦に携わっているのに「特別な試合って聞かれても、出てこないんです」。当たり前、が持つ強さだった。

 今日も巨人が試合をしている。平穏な日々を届けたい-。1945年。1年だけ、プロ野球は中断している。悲しい空白を経て、戦後70年の夏に節目を迎えたから、信念を再認識できた。戦死したOB・沢村栄治氏の文献などに触れ、思いを一層強くした。「戦時中は野球ができなかった。もし38年の間に戦争があったら(自分のアナウンスが)途切れていたかもしれない。平和ですよね」。

 “何も変わらないこと”で訴える安心感。巨人軍1万試合が持つ、大きな意味でもある。山中さんも何も変わらない。来年で定年を迎えるが、うがいと手洗いを欠かさず、50回の腹筋と発声練習を日課とし、使命を胸にマイクへ向かう。「死ぬ時に幸せな人生だったなと思えると思います」。胸を張ってこう言える。

 1万試合。いったい何人の選手がグラウンドに立ったのだろうか。数多くの名前を読み上げた山中さんだが、特に印象深い選手を3人挙げた。「王さん、中畑さん、阿部選手ですね」。

 王の眼光が忘れられない。後楽園の放送室はベンチの並びにあり、ガラス越しに中の様子がうかがい知れた。そこで見た、剣豪のような厳しい表情にくぎ付けになった。「眼光がとても鋭くて。普段とは違いましたね」。世界の本塁打王のすごみは、試合中のベンチでの目力からも実感した。

 中畑の陽気さが好きだった。「おかあちゃん」と呼ばれ、後楽園が水没した時には、おんぶで放送室から助け出してくれた。打撃練習前にはいつも「演歌をかけてよ」とリクエスト。「明るくてファンでした」と前向きな姿に励まされた。

 阿部には、両者を併せ持ったにおいを感じる。東京ドームの放送席はバックネット席上段にある。「後楽園みたいに選手と接することはないかな」と寂しがるが、慎之助には「昔の選手の雰囲気」と好感を抱く。王の眼光に中畑の明るさ、2人が備える優しさ。巨人を間近で伝えてきたからこそ知る、本流に流れるDNAを慎之助に見ている。

 88年、巨人の本拠地が後楽園から東京ドームに移った。場所は変われど、山中さんの定位置が「放送室」なのは変わらない。試合中はトイレに行かず、スコアブックをつけながら、マイクの前でジャイアンツの野球を見続けてきた。

 定点観測をしてきたからこそ、気付くことがある。「今の選手は雰囲気が全然違う。(野球が)よく分からないんです」。かつてはアナウンスをしながら展開が見えた。「7回ぐらいになったら『そろそろ攻め出すな。逆転するな』って雰囲気が出てきたんですよね」。戦術は複雑化し、今季は先行きが読めない混戦ムードだ。「昔は大逆転されたら絶対に優勝できなかったけど、今の野球はそんな試合があっても優勝できちゃいそう」と苦笑いした。

 学生時代から、ジャイアンツファンだった。現在も心の底から応援している。そのうえで今と昔を顧み、未来へ目を向けた。「見ていてワクワクするようなチームに」。ありふれた日常が、巨人戦で胸躍る1日になってほしい-。ずっと変わらず、そう願っている。【取材、構成=浜本卓也】

 ◆山中美和子(やまなか・みわこ)1956年(昭31)11月4日、神奈川生まれ。追浜高(神奈川)では野球部のマネジャーを務めた。高校卒業後、神奈川県高野連に就職。巨人の場内放送係募集に応募して採用され、77年8月から球団職員としてウグイス嬢を務める。現在は運営部課長。