野球はオフシーズン。少々季節外れだが、今回は戦後のプロ野球遠征風景をお届けしたい。交通不便なころのエピソード、そしてスポーツ関係資料収集に執念を燃やした1人の男にスポットを当てる。

 このエピソードを聞いたのはいつごろであろうか。今となっては記憶がすっかり薄れた。話してくれたのが「悲劇のエース」藤田元司であったか、「エースのジョー」城之内邦雄かもしれない。

 昭和40年代のはずである。巨人は大阪から空路、四国でのオープン戦に出向いた。飛行機はYS11、日本航空機製造が製作した双発ターボプロップエンジン方式の旅客機。戦後初の、日本のメーカーが開発した旅客機である。

 空港を飛び立てば1時間ほどの距離であった。上昇を続け水平飛行に移った頃、右側エンジンから煙が噴き出した。それを窓越しに確認したナインが騒ぎ出した。

 「墜落するぞ!」

 機内はパニック状態になった。その時、前席あたりから動揺を鎮めるように、野太い声が響いた。

 「心配するな! この飛行機は片方のエンジンが停止しても、安全に離着陸できるよう、出来ておる。いざとなればグライダーのように、失速するまで滑空する。海に降りればよい」

 どこで仕入れた知識なのか不明だが、野球選手のコメントとしては想定外に専門的で、にわかに信じ難いが、声の主は川上哲治であったらしい。その真偽を本人に聞き損なったが、以来チームの移動は必ず2派に分かれ、最悪の事態に備えることとなった。不慮の事故を想定したのである。最近のプロ野球の移動がどのようなシステムになっているのか知らないが、おそらく分散形式で転戦していることだろう。

 その昔、まだ新幹線も無かった時分、選手たちは木製ベンチの列車で目的地へ向かった。冷房の効かない夏などランニング1枚、首にタオルを巻いての移動で、およそ紳士の球団とは思えぬ風体(もちろん巨人だけに限らないが)であったと聞く。

 1949年(昭24)頃の1枚。座席でちゃめっ気タップリにカメラを構えているのが、戦前戦後、巨人黄金時代を支えた名二塁手・千葉茂。半袖、半ズボン姿である。

 宿舎に着けば大広間、各自食事はお膳で、写真は左から、半裸で食事をしているのが当時の監督三原修(後に脩に改名)、その隣は「塀際の魔術師」平山菊二(外野フェンスによじ登るプレーに定評があった)、浴衣姿は川上、中島治康(プロ野球史上初の3冠王)である。

 そんな事をつらつら書いていたら、1本のエッセーを思い出した。

 公益財団法人野球殿堂博物館(旧野球体育博物館)が年4回発行する「ニュースレター」に掲載された「コラム/博覧・博楽」がそれである。

 タイトルは「スポーツマンホテルのこと」。筆者は宮坂忠子氏。肩書に「スポーツ史研究家/収集家 田尾栄一氏次女」とある。

 田尾栄一は大阪の人。野球ファンにはなじみが薄いが、スポーツ界にとって“大恩人”とでも言うべき人物で同志社大学でラグビーを経験、以後スポーツ資料収集・研究に没頭した。

 昭和初期から始まった膨大な収集は1万5000点余、芦屋市立図書館に「田尾スポーツ文庫」、秩父宮記念スポーツ博物館・図書館ほか野球殿堂博物館にも寄贈された書籍、ポスター、グラブ、パンフレット、優勝額など約40点が所蔵されており、同氏から、と思われる未確認資料もまだ存在するという。

 本業はホテル経営で戦前は甲子園球場近く、戦後大阪心斎橋付近で「スポーツマンホテル」を営んだ。その名の通り、スポーツ界関係者の定宿で、球界では巨人、毎日(現ロッテ)が頻繁に利用した。

 木造2階建てで玄関を入るとロビー、1階にカウンターがあり、2階に上がると大広間があり廊下を挟んで客室があったと、宮坂忠子氏は記録している。随筆によれば、野球選手、とりわけ投手の扱いは別格で、食事の注文も多く「(母親の)食事への気遣いは大変で、あの方はハムエッグ、あの方はオムレツというように好みを承知して作っていました」

 「野球選手の方は家族と離れて遠征のため、残した家族を思い出されるのか、幼い私を家族のように可愛がって」「お土産をくださる方、子供部屋に気さくに入ってきて勉強を見てくれる方もありました」

 「(野球選手は)いつも静かで礼儀正しく、ゆったりとロビーでくつろいでいたことが印象的でした」

 アマチュア野球全盛の、職業野球が曲芸まがいの扱いを受けていたあの頃の、選手たちの素顔であろう。

 「ベースボール」を「野球」と“翻訳”したのは、当初歌人・正岡子規と思われていたが、現在では中馬庚(ちゅうまん、ちゅうま・かなえ)がその人、定説となっている。その“証拠”というべき中馬の著書「野球」は野球殿堂博物館に所蔵されている。

 1897年(明30)発行のそれには「田尾蔵」の、蔵書印がくっきりと残されている。【石井秀一】