プレーバック日刊スポーツ! 過去の10月13日付紙面を振り返ります。2006年の1面(東京版)は、日本ハムが25年ぶり3度目のリーグ優勝を果たすでした。

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<ソフトバンク0-1日本ハム>◇2006年10月12日◇札幌ドーム

 日本ハムの、そして新庄剛志外野手(34=SHINJO)の夢がかなった。王手をかけていた日本ハムが、劇的なサヨナラ勝ちで25年ぶり3度目のリーグ優勝を果たした。0−0で迎えた9回裏2死一、二塁から稲葉の二塁左への内野安打で二塁走者森本が判断よく決勝のホームをついた。本拠地を東京から北海道へ移して3年目。今季限りでの引退を表明している新庄に象徴されるニュー・ファイターズが、北の大地で4万を超える大声援を受け、頂点に立った。21日から中日との日本シリーズで44年ぶりの日本一を目指す。

 あごをがくがくと震わせていた。鋭かった目尻は垂れ、まぶたの下は光っている。新庄が男泣きした。優勝ペナントと一緒に収まった全員での記念撮影。右手人さし指を突き上げた。チームメートに同じポーズをするよう連呼した。「イチバン! イチバン! イチバン!」。みんなで一斉に人さし指を掲げた。「(ポーズは)1番になったことで自然と出ました」。自分がプレゼントし続けたサプライズ。何倍以上にもされ、お返しされた。

 至福の瞬間にドラマが重なった。0−0の9回2死一、二塁。弟のようにかわいがってきた森本が二塁走者だった。稲葉が二塁左へゴロを放つ。一塁走者の小笠原が猛然と二塁へ滑り込みセーフ。森本は迷うことなく三塁も蹴る。自ら提案した「緑」の特大リストバンドの両腕を振り、ホームを目指してきた。返球がくる。次打者席から飛び出し、本塁近くで見守った。滑り込んだ。セーフ。万歳しながら1度、2度、3度…、力の限りジャンプした。「今年でユニホームを脱ぐんですけどジーンときました」。泣けてきた。

 北海道日本ハムファイターズ。巨人と同じ東京ドームが本拠地だった3年前までパ・リーグのお荷物球団とまで呼ばれた。81年を最後に優勝がなく、人気も低迷。春季キャンプでは、あまりの観衆の少なさに犬までカウントし「水増し」。試合後の監督会見で報道陣が2、3人しか集まらず、球場職員に「サクラ」を依頼したこともあった。そんなチームだった。

 北海道移転と同時に加わった新庄が「魔法」をかけた。チームメートにじゅ文のように唱え続けた言葉がある。「楽しむ」。本塁打を打たれた投手、無安打に終わった野手…。気遣うのではなく、からかった。若い男性通訳から将来について相談された時は「若いんだから楽しいことをしろ」。その彼は代理人を目指す決意を固めて球団を辞めた。この日、緊張気味の森本にも見かねて声を掛けていた。「新庄さんが落ち着け、楽しめと言ってくれた」(森本)。いつもの「魔法」で、自身にとって初のリーグVの夢をかなえた。

 楽しく、カッコいいばかりではない。体を張って、心を傷つけながら闘い続けた。今年4月18日のオリックス戦。本塁打を放ち、恒例の本塁打ネーミングで「引退」を発表した。実はその1週間前の夜、専属の荒井広報へ携帯メールで託していた。シーズン序盤の異例の行動に批判の声が出ることも知りながら強行した。理由はチームに注目を集めるため。自ら「客寄せパンダ」にまでなった。

 入団初年度の04年11月のファン感謝デーでは仰天行動もした。ターゲットは当時選手会長でチームの誰もが一目置き、一線を引いていた生え抜きスター小笠原。あいさつに立つと、大観衆の前で何とギャグで“カンチョウ”をかましたのだ。みんな一緒の意識を植え付けた。その小笠原は日本シリーズに向け「ツーさん(新庄)を胴上げしたい」と言った。孤高の天才打者の心の扉も優しく、開いてみせた。

 大一番の試合前でさえ「裏方さんを真ん中にして(ビールかけを)やろう」と提案。無安打も、相手の抗議で中断中には、森本と捕球と送球の疑似プレーの「寸劇」でファンを楽しませた新庄は、感慨深げに言った。「すごいみんないいやつらで選手全員、裏方、監督、コーチとこうやって喜べることが最高に(ジーンと)きますね」。

 まずはパの頂点に立った。引退表明の時に「一番頂点に立てたら死んじゃうかも」と話していたが、この日の試合後には「まだ先があるのでこれから考える」と口にした。自身、日本ハム球団にとっても初の日本一への挑戦権を得た。「もう1度、トレイ(ヒルマン監督)を胴上げしたい」。ユニホームを脱ぐ前に、これ以上ない仕事が、まだ残っている。

※記録や表記は当時のもの