決断の裏には、人の数だけドラマがある。横浜(現DeNA)、ソフトバンクや日本代表でも活躍した通算195本塁打のスラッガー、中日多村仁志外野手(40)は、最終年こそ中日の育成選手として過ごしたが、バットマンの誇りは最後まで持ち続けた。

 9月30日のナゴヤ球場。シーズン最後の2軍練習に出ていた多村は集中していた。フリー打撃の最後1球は試合と同じ気持ちで打つとずっと決めている。そして、現役最後のスイングで左翼フェンス越えの大きなアーチを描いた。

 手に持つバットは約34・5インチ(約87・6センチ)。日本人では現役最長クラス。「これで飛距離が伸びた。バットは刀。自分の刀に巡り会えました」。当たれば飛ぶが、使いこなすのは難しい。17年前の99年、横浜の同僚ロバート・ローズにもらった「刀」だ。以来、微調整を重ねながら40歳まで同モデルを使い続けた。

 優勝した第1回WBCでの活躍により、キューバでは超有名選手。同国の選手では巨人にいたセペダをはじめ、多村モデルのバットを使用する選手が今でも多い。横浜からソフトバンクに移籍時、王監督に「この縁を大事にしよう」と言われた。バットマンは相棒との縁も大事にした。

 最後1年間は2軍生活。中日の構想では開幕前に支配下選手登録。遅くとも交流戦前には。だがキャンプ中に発症したふくらはぎ痛が響いた。シーズン中の登録期限の7月も過ぎた。「今年、支配下が無理なら身を引こうと思っていた。やりきりました。もう痛い思いをしなくていいんだな」。ケガに泣かされ続けた野球人生を振り返った。

 高校生を筆頭に3人の娘の父親だ。横浜を出たあとは1年をのぞいて単身赴任だった。「パパらしいことを何もしてやれなかった。嫁さんにも結婚17年で迷惑をかけた。まずは家族サービスです」。しばらくはグラウンドを離れるが、野球との縁は切らない。「人生にはトライしていきたい。ユニホームも、その時期が来たらいいなと。恩返ししたい」。伝えていきたいのは、ゲームセットまで絶対あきらめない気持ち。最後の1球まで誇りを捨てなかった男の姿はきっと球界に受け継がれていく。【中日担当=柏原誠】