球界の功労者をたたえる野球殿堂入りが23日、都内の野球殿堂博物館で発表され、大学、社会人を経てプロ入りした選手で史上初の2000安打を達成した古田敦也氏(49)が選出された。捕手として1500試合以上出場しての殿堂入りは、野村克也氏、森祇晶氏に次ぐ3人目。眼鏡をかけた捕手は、晴れの舞台で感謝の思いとともに、その誇りを口にした。

 紺のスーツをビシッと着た古田氏だが、トレードマークになっている眼鏡は、それ以上に決まっていた。プロ野球に残した成績や功績は数々あるが「一番、誇れる記録ですか?

 うーん、記録ではないんですが、やっぱり眼鏡をかけてやってこられたということかな。当時は眼鏡をした選手はダメといわれていましたから」と華やかな殿堂入り表彰で、自らの“メガネ野球人生”を振り返った。

 忘れられない屈辱がある。立命大時代の4年、ドラフト指名を待って記者会見場にいた。しかし、眼鏡をしているという理由で、プロからの指名はなし。「今では笑って言えるけど」と話せるが、持ち前の負けん気の強さは燃え上がった。当時の視力は裸眼で0・1。乱視がひどいため、コンタクトで眼鏡の代用はできなかった。

 憧れのプロ野球界入りは「眼鏡をしてもやれる」ということを証明する世界にもなった。トヨタ自動車を経てヤクルト入りすると、当時、野村監督の掲げる「ID野球」の申し子として、1年目から活躍。2年目に首位打者のタイトルを獲得。眼鏡をかけた野球少年から「ボクも眼鏡をかけて野球を続けています、という話を聞くとうれしかった」と胸を張った。

 打ち破った定説は、数知れない。大学から社会人を経由し、球界初の2000安打を達成。当時、捕手の盗塁阻止率は3割を超えるのは難しいといわれる中、プロ入り通算の阻止率は4割6分2厘。93年にマークした驚異的な6割4分4厘の阻止率は、今も破られていない。グラウンド外でも“闘う選手会長”としてストライキを敢行。メジャーでもストライキをすれば批判されるが、他球団の選手をまとめ上げ、ファンの支持を得て球団削減の危機を救った。

 眼鏡をかけている風貌からは想像できない反骨心。「両親に感謝している。母親の身長は150センチぐらいなんですが、その母親から負けず嫌いを受け継いだんでしょう」と自らを分析。闘う野球人・古田が勝ち取った「殿堂入り」の名誉だった。【小島信行】

 ◆古田敦也(ふるた・あつや)1965年(昭40)8月6日、兵庫県生まれ。川西明峰-立命大-トヨタ自動車。88年ソウル五輪銀メダル。89年ドラフト2位でヤクルト入団。90年に新人捕手初のゴールデングラブ賞。91年に捕手ではセ・リーグ初の首位打者。03年6月28日広島戦でプロ野球タイの1試合4本塁打。93、97年MVP。ベストナイン9度、ゴールデングラブ賞10度獲得。セの盗塁阻止率トップ10度。97年正力賞。98~05年に労組日本プロ野球選手会の会長を務め、球界再編問題が起きた04年はリーダーシップを発揮。06、07年に選手兼任監督。夫人はアナウンサー中井美穂さん。現役時代は180センチ、80キロ。右投げ右打ち。

 ◆野球殿堂入り

 球界の発展に功績を残した人物に贈られる名誉。野球殿堂博物館にレリーフ(銅製胸像額)が飾られ、その功績を永久にたたえる。59年に東京・後楽園に建てられた。現在は東京ドーム内(21ゲート右)にある。米国では、39年に野球発祥の地といわれるニューヨーク州クーパーズタウンに野球殿堂(Hall

 of

 Fame)が創設されている。

 ◆競技者表彰プレーヤー部門

 プロ選手を対象として引退後5年を経過して、のち15年間を有資格者とする。幹事会が30人以内の候補を選び、野球報道15年以上の経験を持つ委員(現在348人)が7人以内の連記で投票する。3分の2の有効投票で、75%以上の得票者を殿堂入りとする。得票率が有効投票数の3%未満の場合は、次年度以降の候補者にはなれない。