「東京物語」「青い山脈」などで知られる昭和を代表する女優、原節子(はら・せつこ)さん(本名・会田昌江=あいだ・まさえ)が9月5日、肺炎のため神奈川県内の病院で亡くなっていたことが25日、分かった。95歳だった。葬儀は近親者による密葬で行った。「永遠の処女」「不滅の大スター」と呼ばれたが、コンビを組んだ小津安二郎監督が亡くなった後、女優を引退。公の場に姿を見せない“隠遁(いんとん)生活”を送っていた。

 42歳で女優を引退後、半世紀以上も表舞台から姿を消していた原さんが静かに永遠の眠りについていた。近所に住む親族によると、8月半ばに神奈川県鎌倉市内の自宅で倒れ、親戚に付き添われて病院に行き、肺炎と診断されて入院。退院することなく、そのまま亡くなったという。

 原さんは近年、足は弱っていたが、つえを持たずに歩き、1人暮らしを続けていたという。外出機会は少なく、親戚が買い物をしていた。甥(おい)が買った食材で自炊していることなどが昨年12月に一部で伝えられた。

 原さんは女優志願ではなかった。横浜高等女学校中退後、姉光代さんの夫、熊谷久虎監督の勧めで映画界に入った。1935年(昭10)に「ためらふ勿(なか)れ若人よ」でデビュー。役名「お節っちゃん」から芸名を原節子とした。

 日本人離れした大きな瞳と、彫りの深い顔立ちで人気を集め、戦後は黒沢明監督の46年「わが青春に悔なし」で主人公を熱演。今井正監督の49年「青い山脈」に主演し、主題歌とともに映画も大ヒットした。

 原さんの人生を大きく変えたのは小津監督との出会いだった。49年「晩春」で初めてコンビを組んだ。「東京物語」では上京した老夫婦を気遣う嫁を好演し、世界的巨匠となった小津監督の代表作となった。その後の「麦秋」「秋日和」などにも出演し、誠実でしとやかな日本女性というイメージを印象づけた。恩師のような存在だった小津監督作品には6本に出演。親密ぶりから結婚のうわさも立ったが、監督と女優として互いにリスペクトする関係を続けていた。

 小津監督のほか、木下恵介監督や成瀬巳喜男監督ら多くの名監督と組んで、日本映画の黄金期を築いた。イングリッド・バーグマンを目標にしていると話していたこともあった。

 63年12月に小津監督が死去すると、女優業への意欲を急速に失ったといわれ、その後、映画に出演することはなかった。最後に公の場に姿を見せたのは、62年11月、都内で行われた映画「忠臣蔵」の公開記念パーティーだった。「永遠の処女」「不滅の大スター」と呼ばれたが、引退後は映画人やファンと交流を一切絶ち、鎌倉市内で静かな生活を送っていた。小津監督とともに、生涯独身を貫いた。公の場に姿を見せず、スクリーンのイメージを保ち続けた。

 ◆原節子(はら・せつこ)1920年(大9)6月17日、神奈川県生まれ。日本映画の黄金時代を体現し「永遠の処女」と呼ばれた。出演映画は46年「わが青春に悔なし」(黒沢明監督)、47年「安城家の舞踏会」(吉村公三郎監督)、49年「お嬢さん乾杯」(木下恵介監督)、49年「青い山脈」(今井正監督)、51年「めし」(成瀬巳喜男監督)、53年「東京物語」(小津安二郎監督)など。63年に女優を引退。