◆故立川談志さんの長女松岡弓子氏(48)と長男松岡慎太郎氏(45)の一問一答◆

 午後9時から始まった会見の冒頭、慎太郎氏があいさつ。

 慎太郎氏

 本日、午後3時に葬儀を終えることができました。3年前に喉頭がんになりまして、発見が早かったので効果的な放射線治療ができましたが、昨年11月に本人がのどの調子が悪いと話していたので医者に診てもらったところ、再発と言われ、余命を宣告されました。声門がんだったので『声帯を取ってください』と言われましたが、案の定『プライドが許さない』と拒否しまして、がんの表面だけを取り除きました。その後がんが進行して、今年3月終わりに気管切開手術をして管を入れました。在宅5カ月、前後1カ月は入院していたでしょうか。危険な状態が何度かありましたが、意外と強くて。10月27日に急変し、心肺停止しましたが、また心臓が動きだしてそれから3週間(後に亡くなった)…。お医者さんもびっくりしていました。飲めない、食べられない、しゃべられないのが何よりもつらい状態だったでしょうが、1回も辛いと言わなかった。いつも『長く生きるもんじゃない』とか『痛いのは嫌だ』とか言う人だったのですが。最後の最後、みんな家族は間に合いました。穏やかな死でした。葬儀が終わったばかりなので、気持ちの整理がまだつかないのですが。

 -3月の気管切開手術内容について

 弓子氏

 穴を開けたりして、声がほとんど出なくなりました。穴の隙間から漏れた声で最後にしゃべったのは「私の名前は立川談志。どうしてこうなったの?」と。主治医の先生には「しゃべりたい、しゃべりたい」と話していたようで、辛かったんだと思います。筆談だったのですが、後半は字も読めなくなりました。筆談のメモがすごい量でした。いっぱい書いてたねー。遺言や遺書はなかったです。ただ、葬儀もしない、お経もいらない、骨は海にまいてと。戒名は自分でつけてました。密葬でしたが、なるべく意思に添えるようにと。皆さまから逃げるような形でしたが、音楽で送り、紋付きはかまで扇子を持たせました。似合っていて、格好良かったです。

 -戒名を教えてください

 慎太郎氏

 本人がつけたのですが、立川雲黒斎家元勝手居士(たちかわうんこくさいいえもとかってこじ)です。

 -昨年11月の時点で余命はどれくらいだったのか

 弓子氏

 本当に病院が嫌いで、丸5カ月、おうちで過ごしましたが、大変でした。

 -奥様の様子は

 弓子氏

 母が頑張りました。すごく幸せな夫婦だったと思う。思いやりあえるのが素晴らしかったと思う。落語家立川談志は格好いいけど、この8カ月間の印象は最高にやさしいお父さんでした。

 -ひつぎに納めた物は。また遺書や遺言は

 慎太郎氏

 お花以外はトレードマークのバンダナ、かわいがっていたぬいぐるみをお供させました。遺言や遺書は一切なかったです。

 -破天荒な印象でしたが、どんな父親でした

 慎太郎氏

 イメージされているのとほぼ同じです。

 -病床でも高座への思いは強かった

 慎太郎氏

 ギリギリまで強く持っていたと思いますが、ベッドから起きられない状態の現実も分かっていたと思います。お弟子さんの会にも「着物を着て行ってやる」と言っていました。強さと優しさ、両方あったと思います。

 弓子氏

 3月に声を失ってから、おしゃべりで毒舌だった父親が一言も口をきけなくなったのは、切なくていじらしくもありました。以前の父は破天荒で、外と家で言っていることは同じだったけど、声を失ってからは、どんどん何もできなくなっていって、要介護5になって、なってみないと分からないことが双方にあったと思います。

 -師匠自身、病気になって変わった

 弓子氏

 変わったと思います。勝手な人が我慢せざるを得なく、何事もしてもらわないといけない状況。でも、物を食べられないことよりも、何よりもしゃべりたい、ということの方が大きかったと思う。元の部分がすごく強い人。強さも見せつけられました。

 -どんな存在だった

 慎太郎氏

 意外に思われるかもしれませんが、家族孝行の父でした。去年病状を知らされてから、気持ちを整理する時間がありましたし、家族が悲しまないように突然死ぬこともなく、死にざまは見事だったと思う。すごい父親でした。

 弓子氏

 ふとした病で死にたいと言っていましたが、私たちのために、頑張っていたと思います。

 -余命2、3カ月ということを本人は知っていたのか

 弓子氏

 微妙なところです。隠してなかったのですが。

 慎太郎氏

 言ってなかったのかな。

 弓子氏

 病気になってから、泣き言は一切言わなかった。自覚はしていたと思います。3月に気道確保の穴を開けた時、しゃべれなくなると主治医からはっきり言われなかったみたいで、受け入れるのに時間がかかったみたいです。

 -筆談の最初の言葉は

 弓子氏

 「しゃべれるのか。声は出るのか」と。答えられなかったです。手術の直後は…。

 -闘病中に病気について誰かに知らせたのか

 慎太郎氏

 家族だけで…。がんで肉体的にも気力も落ちていたので、心配かけるし、穏やかな状況で過ごしてもらいたかった。悩みましたが、一門の人間にも伝えませんでした。

 弓子氏

 しゃべれなくなった立川談志をさらしたくなかったから。お弟子さんには夏に一席設けました。具合が悪くて、1人で歩ける状態じゃなかったのですが。それが最後です。

 慎太郎氏

 弟子に会うことを楽しみにしていました。

 弓子氏

 病院に寄って39度の熱を下げる注射をして、かつがれるように行きました。お弟子さんの前でもしゃべれませんでした。

 -再度確認を。本人は余命を知っていたのか

 慎太郎氏

 察知してなかったと思う。

 -再発が分かってから高座に臨んだ姿はどう映ったか

 弓子氏

 出ない声で「芝浜」を去年の暮れにやりましたが、普通の人ではあり得ないこと。したかったんだと思います。

 -好きだった店、思い出の場所などは

 弓子氏

 家で食べるのが好きな人でした。

 慎太郎氏

 最後は牛乳、ヨーグルト、バナナで「チンパンジー食か」と嫌がってましたが。

 弓子氏

 食欲がなくなってきていましたが、気管切開後にステーキを細かく切って出しました。「オレも食べたい」と言って食べましたが、死にそうになりました。外食はあまりしなかったです。去年のクリスマスは洋食屋さんで食べました。

 -密葬でかかっていた曲は

 弓子氏

 「ザッツ・ア・プレンティ」です。

 慎太郎氏

 これで満足です、という意味です。